■節子への挽歌1782:「人間は他界を考え夢見る動物」
「人間は他界を考え夢見る動物」。
こう語っているのは、民俗学者の谷川健一です。
幽霊のことを書いていたら、これにも触れたくなりました。
ここで「他界」というのは、次元の違う世界のことを指しているのだろうと思います。
簡単に言えば、此岸に対する彼岸であり、現世に対する来世です。
よく3次元の世界の住人には、4次元以上の高次の世界は見えないといわれますが、それを「考え夢見る」ことができるのが人間です。
考えることができるものは実現する、ということもよく言われます。
いささか短絡的ですが、考えることができるものは必ず存在すると言ってもいいでしょう。
かくして、私は来世も彼岸も実在すると考えているのです。
私のこの説明に、多くの友人は笑います。
論理的ではないというのです。
しかし、実在しないものを指す言葉があるほうこそ、私には論理的ではありません。
実在を証明できないものは実在を信じないという人もいます。
しかし、そういう人が信じる根拠にしている「証明」は、私には極めて脆いものにしか思えません。
そもそも「実在するものの実在」を証明するとはどういうことでしょう。
証明しそこなったら、それは実在しないとでもいうのでしょうか。
証明の有無に関わらず、実在するものは実在するのです。
同じように、実在しないものを実在しないと証明することは不可能です。
なにしろ実在しないのですから。
では、来世や彼岸はどうか。
来世や彼岸が実在しないことを証明するのは不可能ですし、実在することも証明できない。
だとしたら、決めるしかありません。
私は実在すると決めています。
谷川健一の言葉の意味は、私には「人間は、他界の実在を信じ、他界とともにある動物」ということだろうと思います。
なにやら小難しい屁理屈を書いたような気もしますが、もし他界の実在を考えることができるのが人間なのであれば、彼岸や来世があると考えるのが素直でしょう。
かくして私は、来世や彼岸を確信しているわけです。
他界を感ずる能力を得たのが人間ならば、それを活かさなければいけません。
残念ながら、私の場合、まだその能力が未熟なために、他界との往来はできませんが、そこにいる節子が、時に透けて感じられるくらいはできるような気がします。
それこそが幽霊なのかもしれません。
人間が小賢しさを持たなかった昔は、往来も出来たようですが。いまは往来はなかなか出来ません。
まもなく自由に往来できる時が来るかもしれませんが、どちらが幸せかはわかりません。
かつて往来可能な時代に、彼岸に行った人はみんな不幸になっているのは、なぜなのでしょうか。
そこには、深い意味が必ずあるはずです。
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