■節子への挽歌1770:他人の代役では問にあわない存在
ジェイン・ジェイコブズは、その著書「アメリカ大都市の生と死」の中で、こう書いています。
都市というのは、単に建物や施設だけではなく、人がつくりだす有機体だという話の中で、出てくる文章です。
実際の人間というものはユニークな存在である。彼らは生涯の何年かというものを他のユニークな人間と有意義な関係を続けることに投じており、彼らは決して他人の代役で問にあわせるわけにはいかないのである。「アメリカ大都市の生と死」は、若い頃、熟読したはずですが、こんな文章が載っていたとはまったく記憶に残っていませんでした。
たぶん当時は心に残ることもなく読み流していたのでしょう。
最近、読んだある本に、この文章が引用されていたので、改めて書棚から取り出して、その前後を読み直してみました。
たしかに、この指摘はジェイコブスの都市論を支える重要な要素です。
しかし、今の私にはまったく違った意味で、この文章は心に響きます。
私の人生の半分以上を、私は節子と共にしてきました。
節子は、一般的に言えば、どこにでもいる平凡な人間でした。
しかし、ジェイコブスの言葉を借りれば、私にとっては、「有意義な関係」を続けてきた「ユニークな人間」と言えるでしょう。
そして、節子がいたからこそ、私もまた「ユニークな存在」になったのです。
そして、まさに「決して他人の代役で問にあわせるわけにはいかない」存在になってしまったのです。
ジェイコブスは、この文章を都市論で語っていますが、人生論として考えても、とても納得できる文章です。
「ユニークな存在による有意義な関係」が、都市に意味を与えるように、それはまた、人生にも意味を与えるのです。
では、その存在がなくなったらどうなるか。
都市であれば廃墟に向かいだすか、違う「関係」が新しい都市を生み出すでしょう。
人生の場合も同じでしょうか。
同じだとしたら、廃人になるか別人になるかです。
廃人にも別人にもなりたくない場合はどうしたらいいでしょうか。
ジェイコブスは、ほかの著作でなにか語っているでしょうか。
久しぶりにまた、ジェイコブスを読んでみようと思います。
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