■節子への挽歌1771:青い空
節子
夏が楽しかったのは、いつの頃までだったでしょうか。
昔は、夏が近づいてくるだけで、なにか元気が出てきたものでした。
しかし、いまは夏がきてもわくわくすることはありません。
夏が来ても、節子がいないからです。
私は、あまり思い出に浸るタイプでもなく、思い出を大事にするタイプでもありません。
過去にはあまり興味はなく、いつもこれから起こる新しいことに目が行くタイプです。
過去に縛られだしたのは、節子がいなくなってからです。
それは仕方がありません。
私にとって一番大切な節子との時間は、いまではもう「過去」にしかないからです。
ですから、節子がいない今は、時間感覚が一変してしまったのです。
過去も、現在も、未来も、私の中ではどこか重なり合ってきています。
生きる基準だった、節子が止まってしまったからかもしれません。
これも実に不思議な感覚なのです。
たぶん愛する人を失った多くの人が経験していることでしょう。
時間感覚が変わってしまう。
時々、自分の年齢さえもわからなくなってしまうのです。
ところで、今年の夏は、昨年までとちょっと違うような気もします。
あまり気が沈まないのです。
昨年までは、暑くなればなるほどに、心が冷えるような気がしていました。
節子の過酷な闘病生活が思い出されて、心身を覆ってしまうからです。
それを思い出すと、わが家の風景さえもが変わってしまうのです。
現実に見える風景と心身が感ずる風景が違ってくるのです。
だから、夏が好きにはなれませんでした。
今年はちょっと違うのです。
節子がいないのです。
節子を忘れたわけではありません。
現に昨夜も、節子の夢を見ました。
しかし、昼間はあまり出てきません。
思い出しはしますが、出てこない。
節子がいなくなった後、複数の人から、時が癒してくれますよ、と言われて強く反発したものです。
時間が癒せるはずはないと怒りさえ感じました。
しかし、もしかしたら時間が気持ちを変えてしまうのかもしれません。
もちろん「癒し」とは違います。
節子がいない寂しさや悲しさは、何ひとつ変わることはありません。
しかし涙はあまり出なくなりました。
心身が動けなくなることもなくなった。
それは間違いありません。
そのことを喜ぶべきか嘆くべきか、いささか複雑な気持ちです。
私の「生気」が萎えてきているせいかもしれません。
また、ただただ暑い夏がやってきました。
唯一、うれしいのは、青い空を見られることです。
節子も私も、暑い日の青い空が好きでした。
いつかそこが私たちの住処になるのだと感じていたからかもしれません。
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