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2012/07/03

■節子への挽歌1764:飯舘村の人和み地蔵さん

節子
福島の飯舘村は、とてもきれいな農村風景だったはずです。
それが被曝により計画避難地域になってしまい、水田も畑も荒れていました。

飯舘村は以前から「までい」な村づくりに取り組んでいました。
「までい」とは「真手」と書きます。
手間暇惜します、時間をかけて、ていねいに、と言うような意味です。
私は以前、福島に仕事で通っていた頃、その言葉を教えてもらいました。
以来、一度は行ってみようと思っていたところです。
しかし、行けませんでした。
節子が発病し、逝ってしまい、私自身もどこかに行こうという気持ちが砕け散ってしまっていたのです。

原発事故の後、その飯舘村の名前をテレビや新聞でよく見かけるようになりました。
村民もばらばらになり、飯舘村はもうなくなったと思っていました。
その飯舘村に、今回、立ち寄れたばかりか、村づくりの中心だったいいたてクリニックのある場所にも寄ってきました。
そこにぽつんと、人和み地蔵さんがありました。
二体が寄り添った、めずらしいお地蔵さんでした。

Iitate2

そこで、飯舘村でがんばっている「かーちゃんの力・プロジェクト」代表の渡邊とみ子さんの話を聞きました。
カーちゃんの力でつくった料理も、前日、楽しませてもらいました。
山菜を使った美味しい料理でした。
渡邊とみ子さんは、バスの中でもずっと話してくれました。
原発事故の後、何があったか、生き方がどう変わったか。
話している間、ずっと笑顔でしたが、その奥に涙を感じさせられました。
そして、最後に聴いていた男性たちみんなに問いかけました。
かーちゃんがこんな風に頑張りだしたら、みなさんはどうされますか、と。

だれもうまく応えられませんでした。
渡邊さんは、うちの人は応援してくれています、と言いました。
ちょっと拍子抜けする言葉でしたが、その言葉の奥に深い意味を感じました。
かーちゃんの力は、どこから湧いてくるのか。

人和み地蔵さんを見ているうちに、節子の「までい」な生き方、を思い出しました。
節子は、とりわけ病気になってから、一日一日を、とてもていねいに生きていました。
私は、どちらかといえば、粗雑な生き方をしているのですが、節子のおかげで当時は少しだけ「までい」な生き方になっていたように思います。
恥ずかしながら、節子がいなくなった今は、以前よりも生き方が粗雑になっています。
困ったものです。
改めなければいけません。

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