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2012/07/08

■汚染ということ

「汚染」という言葉を、善悪や倫理の問題として認識している限り、環境問題の本質的な議論はできない、と惑星科学者の松井孝典さんは書いています。
ある生命にとっての「汚染」が、ある生命にとっての「恩恵」になることはよくあることです。
二酸化炭素で充満していた地球を植物が大量の酸素で「汚染」してくれたために、動物が生きやすくなったことを忘れてはいけません。

先日、福島でお会いした塩谷さんからメールが来ました。

3年ほど前から、大学に隣接する遊休農地を、地元の方にお手伝いいただき再生させ、学生もまじえて農作業をし、交流の場として活用してきました。
震災以降、そうした楽しみも奪われましたが、生き物は何事もなかったかのように成長しています
(実は放射能の影響がでているのかもしれませんが、まだ不明です)。
人類がいないほうがほかの生物にとってはよいのではないか、と思うこともしばしばです。

塩谷さんには、一度しかお会いしていませんが、その時のお人柄が改めて伝わってくるようなお話です。
放射線量が増えても、生き物は何事もなかったかのように成長している。
たしかに、わが家の周辺もそうです。

今朝、自治会の役員のみなさんが、放射線量測定に来てくれました。
我孫子市はいま、自治会が中心になって線量調査をしています。
わが家の庭の芝の上は、0.3マイクロシーベルト、雨水排出口周辺は0.5以上でした。
原発に近いいわき市と同じ水準ですね、と測定に来てくださった方は言っていました。
昨年の測定時とほとんど変わりはありませんが、雨水排出口はむしろ高まっているかもしれません。
さて、これを「汚染」と言うべきかどうか。

芝生は表土を排除したら、放射線量は下がるでしょう。
しかしその表土は、どこに廃棄したらいいのか。
先週、訪問した飯舘村のお地蔵さんの周りの放射線量はわが家とほぼ同じでしたし、福島大学構内に設置されていた測定器は0.2以下を示していました。
いずれも、かなりの「除染作業」が行われた結果です。
測定器が置かれているところだけ除染して、見えるデータを低くするという姿勢に、恐さを感じますが、そもそもこれだけ広域に放射線が拡散した以上、除染などは難しいでしょう。
むしろ0.3前後の放射線量の中で、どう暮らしていけばいいかを考えるべきでしょう。

問題は、この0.3が、さらに高まっていくかどうかです。
原発再稼動を進めるということは、それを加速させることです。
そうした選択がなぜ行われるのか。
そういう人たちに、「持続可能性」とか「生活第一」とか、言ってほしくはありません。
私には、野田首相は極悪な犯罪者にしかみえません。
犯罪者がどこにいるかは、今回の大津の中学生自殺問題で見えてきたように思います。
加害者の中学生を取り囲む大人たちの醜い構造が見えてきましたが、問題の構造は、私には同じく見えてなりません。
放射線量と違い、人間の生活の汚染ははっきりと「汚染」と言えるように思います。

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