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2012/08/11

■節子への挽歌1800:ささやかな日常の営みこそ輝いていた

先日の「骨董市」を読んだ方がメールをくださいました。
1年ほど前に伴侶を見送った方です。

最後の数行の節子さんを彼に置きかえて読んだ途端、声を上げて泣いてしまいまいた。
彼との生活は本当に輝いていました。ささやかな日常の営みこそ輝いていたと言えます。
彼も多くのものを私に付加してくれました。多少なりとも彼もそう思ってくれていると信じたい・・・。
私は一生独身を予想していただけに、出会いの時からこの幸福の奇跡に畏れるほど感謝していました。
もちろん、ぶつかり合いもありました。それも含めてです。
「ささやかな日常の営みこそ輝いていた」。
私も、この思いが、日を追うごとに強くなってきています。
節子は、私よりもずっと早くに、そのことに気づいていたことは間違いありません。
しかし、おそらくこの方もそうかもしれませんが、その「ささやかな日常の営み」をもう2度と体験できないのです。
節子は、それを知っていた。
だから、一日一日を大切にしていました。
にもかかわらず、私は、今から思えば、節子との最後の時間を粗雑に過ごしてしまっていたのです。
いつかまた2人で旅行にも行けると、最後の最後まで信じていたのです。
そういう私を、節子はどう思っていたことでしょう。

節子がいなくなったいま、残念ながら、「ささやかな日常の営み」は輝いてはいません。
どこが違うのでしょうか。
たしかに節子はいませんが、「日常の営み」としては、さほどの変化はないのです。
でも何をしても、決して輝くことはありません。

日常が一変してしまったのです。
やっていることは同じでも、意味合いは全く変わってしまった。
たった一人の存在が、これほどまでに大きな変化を与えるものかと、不思議に思います。
節子は、どこにでもいる平凡な女性でしかなかったのに。
節子のどこにそんなパワーがあったのだろうと、時々思うのです。
「愛」とは、枯れ木に花を咲かせるものなのでしょう。
その「愛」が消えるか、熟してしまう前に、別れを体験することは、やはり悲劇です。
輝いている「ささやかな日常の営み」を失ってしまうことは、やはりどう考えても、不条理としかいえません。
幸せは不幸と、まさに裏表なのです。
できるものなら、もう一度ひっくり返したいものです。

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