■節子への挽歌1796:訃報続き
節子
同世代の友人の訃報続きです。
70歳を超えれば、それが普通なのかもしれません。
しかし、その人とのこれまでのことが、頭をかけめぐります。
と同時に、その先に、伴侶を失った人のことへの思いが生まれます。
私の体験から言えば、先に逝く人は幸せかもしれません。
愛する人に悼まれながら、しずかに旅立てるからです。
しかし残された人はどうでしょう。
悲しさとさびしさを背負い続けなければいけません。
しかし、そういう考えは、あまりに身勝手かもしれません。
いささか薄情なのかもしれませんが、同世代の訃報は驚きこそすれ、悲しさはありません。
妻の死をこれほど悲しみ、そこから抜け出られないでいるのに、訃報には悲しまなくなった。
歳のせいかもしれませんが、死への思いが変わったからかもしれません。
どうせまた会えるではないかという気もしますし、いまでもさほど会っていないではないかという気もします。
訃報を聞いても、何も変化はないのです。
訃報を知らなければ、何も変わらないでしょう。
事実、最近では、さほど親しくなく、もう10年以上会っていない人の訃報は、忘れてしまいます。
そして、時に、あの人はまだ生きていたかなあ、訃報をもらったとうな気もするなあ、とわからなくなってしまうことさえあるのです。
不謹慎と言えば不謹慎、不誠実と言えば不誠実。困ったものですが、それもまた事実です。
お別れの会や告別式など、最近はどうもあまり行きたくなくなりました。
10年ほど前までは、私は結婚式よりも告別式のほうが出席しやすかったのですが、最近は逆になっています。
お葬式にはあまり行きたくない。
その人の死を意識したくないからかもしれません。
できるならば、私の友人知人はみんな私よりも長生きでいてほしいです。
たとえ私よりも20歳も年上でも、です。
訃報続きは、気を沈めます。
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