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2012/08/24

■節子への挽歌1818:自らをさらけ出せる相手

節子
節子がいなくなってから付き合いが始まった一人に、元任侠の人だったKさんがいます。
元任侠というと語弊がありますが、今もなお彼は心情的には任侠に生きています。
もちろんいわゆる組織からは離れています。
わが家にも2度ほど来たことがあり、娘たちもよく知っています。
そのドラマティックな人生はテレビでも何度か放映されました。
いまは福祉関係の仕事をしていますが、最近連絡がありませんでした。

そのKさんから夕方電話がありました。
新橋に飲みに行こうというのです。
あいにく今日は夕方から湯島で集まりが予定されていますので誘いは受けられなかったのですが、なんでまた私を誘うのかと訊いてみました。
最近ちょっと信条に反することをしてしまったので、それをさらけ出せる相手と飲みたかったというのです。
それで電話で長々と話しました。

その信条に反することというのは、極めて個人的なことでした。
彼が気にするほどのことではなく、私から見れば彼の信条から大きく逸脱しているわけでもありません。
しかし彼としてはどうもすっきりしないようです。
Kさんはともかくまじめすぎて、自分に厳しすぎるのです。
まあその件は、ほどほどの解決をしたのですが、Kさんと話しながら気づいたことがあります。
自分をさらけ出すことのできる人がいるかどうかは、極めて大事なことだということです。
私は、かなり自分のことを公開していますし、弱みや悩みも含めて隠し事はしないように心がけています。
しかし、そうはいっても私のすべてをさらけ出しているわけではありません。
娘に言わせると、この挽歌もかなり「都合よく化粧されている」そうです。
それには必ずしも納得できませんが、嘘はないとしても、あえて書かないことはたしかにあります。
書かないというよりも、書けないといったほうが適切かもしれません。
それに、思ったことをそのまま書けば、誤解されたりすることもあります。

自分をすべてさらけ出すということはかなり勇気が必要です。
相手に対する絶対的な信頼関係がないとできません。
信頼関係だけでもありません。
私の場合、娘たちにもすべてはさらけ出せないかもしれません。
しかし、実に不思議なのですが、いま思うと節子にはすべてをさらけ出していました。
Kさんと話していて、それに気づきました。
私が思い切り自らを生きてこられたのは、節子がいればこそだったのかもしれません。
そして、私が自らをかなりさらけ出す生き方ができるようになったのも、節子のおかげかもしれません。
節子は、地の私をすべて無条件で受け容れてくれていました。
それが私には大きな支えになっていました。

自らをさらけ出すのは、もしかしたら血のつながりがない相手のほうがいいかもしれません。
親子や兄弟姉妹は、それなりに甘えや張り合う意識があって、ややこしいからです。
そう考えていくと、自らをさらけ出せる相手を得ることの大切さがわかります。

節子がいなくなったために、もしかしたら、私の中にもさらけ出していないものが鬱積しているのかもしれません。
最近どうもあんまり調子がよくないのはそのせいかもしれません。
任侠の人との電話は、話していることとは違った、いろんなことを気づかせてくれました。
さてさてどうするか。

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