■日本の社会を支える過剰消費
今朝の朝日新聞「天声人語」に、こんな文章がありました。
北九州市の節電実験で、値上げ世帯の使用が平均16%も減った。実験にかかわる関宣昭さんは「足りないと言うが、今までが必要以上に使うメタボ状態。適正値は、国や電力会社ではなく消費者が決める」。節電実験をしなければこんな自明なことさえわからないのかと、本心では思いますが、まあこういう言葉がようやく涼しい部屋で過ごしている大新聞の編集委員などにもわかってきたかと思うとちょっとうれしいです。
前から書いているように、そもそも「節電」などという言葉がおかしいのであって、過剰消費をしなければいいだけの話です。
しかし、「過剰消費」は今の日本の社会の基盤を支えています。
過剰消費を生み出すこと、顧客を創造することが経済だという社会は、過剰消費で成り立っているといっても過言ではないでしょう。
電力は、まさにその文化のど真ん中に位置しているわけですから、過剰消費を覆い隠すために「節電」という言葉が広く使われているように思います。
過剰消費の「過剰」には、さまざまな意味がありますが、現在の日本の社会は世代を超えての過剰消費という面も強く持っています。
その現われが、資源枯渇であり、環境破壊です。
原発は、その象徴かもしれません。
灰色のマトリョーシカの話に示されているように、原発の恩恵など受けなかった世代が廃炉を管理しなければいけないのです。
しかも、人間的感覚で言えば、未来永劫です。
たとえ「首相」といえども、限りある命しかない個人に「責任」がとれるはずはありません。
もっとも「節約」という言葉は、電力に限らず、昔からよく使われた「美徳用語」です。
その視点に立てば、「節電」に異を唱えるのも間違っていると思われるかもしれません。
しかし、電力会社や産業界が唱える「節電」は、一方で電力の過剰消費を促進していることであり、それらは実はセットなのです。
エネルギー効率がよいからといって、どれだけの商品がまだ使えるのに廃棄されたことか。
省電力だからといって、どれだけの過剰消費が見直されずにすんでいることか。
おそらくみなさんも、心当たりがあるでしょう。
電気料金が上がることに反対する人の気持ちも私にはわかりません。
そもそもが安すぎるのです。
原発反対という一方で、電気料金値上げ反対という人は、私は蹴飛ばしたいくらい嫌いです。
しかし、首相官邸周辺に集まっている人の中には、そういう人も多いのでしょう。
そういう人が社会を壊してきた、と私は思います。
電気代が高いと思うならば、個人なら消費電力を減らせます。
中小企業は大変だと言われていますが、たしかに大変です。
それは大企業のための産業構造があまりにしっかりとつくられてしまっているからです。
主体性なくやってきたことの咎が出てきただけの話です。
大変さはわかりますが、これまで甘んじすぎていたともいえます。
すべては「身から出た錆」なのです。
問題は私たちの生き方であり仕事の仕方であり、事業活動していく組織のあり方です。
そう簡単に変えられるとは、私も思ってはいませんが、こうなることは1980年代から予兆はあり、警告も発せられていました。
それに気づかなかった、あるいは気づこうとしなかった人生を反省するほうが心休まります。
生き方を変えれば、消費税がどんなに高くなっても心配ありません。
金銭的消費をしなければいいだけのはなしです。
そろそろ「お上」の支配ツールである金銭からも自由になりましょう。
その一歩を踏み出す人が増えれば、100年先にはきっと社会は変わっています。
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