■節子への挽歌1787:生活感覚
節子
今日は朝からセミがうるさいほどです。
最近は、朝起きて、まずは庭の花に水をやります。
少しずつですが、生活が正常化してきています。
何を持って「正常化」というかは難しいですが、身のまわりの生活環境に気が向き出したといっていいかもしれません。
何をいまさらと言われそうですが、一度壊れてしまった生活感覚はなかなか戻らないのです。
節子が中心になって育て上げてきた、わが家での生活リズムや生活文化は、節子がいなくなっても変わりません。
食器棚の食器の置き方も、掃除の仕方も、衣服のしまい方も、庭の花木の植え方も、です。
「良い悪い」は別にして、節子が敷いた路線はいまも基本的には続いています。
主婦というのは、やはり偉大な存在でした。
それを維持していた節子がいなくなってしまったのですから、まあいろんな不都合は起こってきます。
「手が不足」しているわけですから、当然と言えば当然です。
庭の植木鉢のかなりは枯らしてしまいました。
娘たちが整理してくれてはいますが、それよりも、何となく枯れていくのもいいかと、最近は思うようになりました。
自然は、そうして朽ちていくのが一番です。
最近はそんな心境になっていますので、節子が大事にしていた花が枯れてしまっても、そう慌てなくなりました。
間もなく私自身が枯れていくわけですから、慌てることもありません。
もしかしたら、私自身が「素直に枯れていく」ことを忘れているのかもしれません。
昨日、湯島にやってきた人から、私の父は同い年ですにしては、佐藤さんはお若いですね、と言われました。
つまり私自身に自覚がないということです。
たしかに年甲斐もなく、おかしな話に巻き込まれてしまったりしています。
落語に死んだことを忘れてしまった人の話があったような気がしますが、私もその類の人間かもしれません。
困ったものです。
もっと歳相応にならなければいけません。
自宅に庵でもつくり、そこで来客の話を聴くでもなく聴かないでもなく、という塾でもやったほうが良いかもしれません。
しかし、いまはまだ20数年前からやっている、さまざまな人の駆け込み寺である湯島のオフィスで、いろんな人に会っています。
今日も会ったことのない若者が2人やってきます。
さてさて、どんな話でしょうか。
以前と違い、横で、聴くでもなく聴かないでもなく、座っていた節子がいないので、私一人で対応しなければ行けないのが寂しいですが。
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