■節子への挽歌1802:そこがいいところだよ
節子がいつも怒っていた言葉があります。
「そこがいいところだよ」という言葉です。
何か私に不都合があって、節子に注意された時に、私がよく使っていた言葉です。
人は欠陥だらけです。
だからこそ面白い。
そう思って生きていますので、その「欠陥」を節子から指摘された場合、私はそう対応していました。
欠陥があるのは人間らしくていいというわけです。
そのくせ、節子の欠陥に関しては、私はよく注意しました。
まあ、それも私の欠陥のひとつだったわけです。はい。
節子も、「そこが私のいいところよ」と応えればいいのですが、節子は真面目ですから、そう応えられずに反論か言い訳をしがちでした。
そうなると、話はどんどんややこしくなるのです。
そして夫婦喧嘩。
「そこがいいところだよ」という私の言葉は、私のお気に入りの言葉の一つでした。
節子はその意味を理解していましたが、私の身勝手さだと怒ってもいました。
と言っても、それが私の欠陥だとわかっていたので、諦めていましたが。
いつも笑いながら怒っていました。
いや、怒りながら笑っていたと言うべきでしょうか。
最近、その言葉を使う機会が少なくなりました。
時々、娘には使いますが、節子と違って、あんまり張り合いがないのです。
「はいはい」と、軽くいなされてしまうからです。
しかし、最近、自分の欠陥を認識することが増えてきました。
「そこがいいところだ」などと気楽に言えないような欠陥が、です。
歳を重ねて自らのことがようやくわかってきたのか、それとも賢明になってきたのかわかりませんが、自分がかなりの「欠陥人間」であって、面白がってばかりもいられないと言うような気になってきたのです。
なぜそんな気になってきたのか。
それに今日、気づいたのです。
私の欠陥を補ってくれ、それを価値反転させてくれた節子がいなくなったからです。
伴侶は、それぞれの欠陥を補い合う関係ではなく、欠陥を価値反転させ、長所にしてしまう関係なのではないか。
そのことに気づいたのです。
その伴侶がいない今、同じような言動を続けていてはいけないのです。
欠陥が欠陥として振りまかれてしまうからです。
遅まきながら、少し生き方を自重しようと思います。
まあ、ほとんど無理でしょうが、少しくらいなら自重できるでしょう。
節子がいなくなったのだから、少しは常識的な意味での賢さを習得しなければいけません。
私にはとても不得手なことなのですが。
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