■節子への挽歌1801:身勝手さの反省
もう一度、読者からのメールを引用させてもらいます。
ハッとさせられる文章があったからです。
それは、次の文章です。
通勤や買い物で夫婦、家族の何気ない会話を耳にすると、以前の自分たちを思い出して切なくなります。人は本当に自分勝手です。
私たちがそうしていた時、今の私のような思いで聞いていた人もいたかもしれません。
ああ、人生とは!と叫びたくなります。
たしかに、そう言われると、私も、あるいは私たちも、身勝手に行動していたことに改めて気づかされます。
そうした事は、実は最近、私も自らで体験しています。
女房と美味しい食事を食べに行ったという、ただそれだけの友人の言葉がグサッと心に突き刺さります。
この夏は夫婦で海外旅行に行ってきた、とうれしそうな報告を聞くと、複雑な気分になる。
長野の別荘で夫婦でのんびりやっています、という連絡には、素直には喜べない。
実にまあ、性格の悪い人間になってしまったと自分でも思いますが、どうしようもないのです。
そして、思い返せば、節子が元気だった頃、相手のことなどまったく意識することなく、私もきっと無邪気に、こんな発言をしていたのかもしれません。
妻は私の生きる意味です、という発言も、聞く人によってはさぞかし耳障りだったことでしょう。
節子との一緒の暮らしを、無邪気にはしゃいでいたことを恥じなければいけません。
もしかしたら、それを嫉妬した神様が、節子を奪ってしまったのかもしれません。
挽歌に寄せられるコメントやメールで、気づかされることはたくさんあります。
時に安堵したり、時に後悔させられたり、時に迷ったり、時に心配したりしながら、狭くなりそうな自分の世界を広げています。
書き手の中に、自分を見つけたり節子を感じたりすることもあります。
なによりも、節子を思い出させてくれるのが、私には一番の喜びです。
コメントやメールをくださる方々に、いつも感謝しています。
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