■節子への挽歌1855:名前の霊力
節子
実は昨日、挽歌を書けなかった理由はもう一つあります。
小畑万理さんが企画編集した本を送ってきてくれました。
「地域・施設で死を看取るとき」(明石書店)です。
この本は、小畑さんの深い思い入れがあって実現した本です。
その企画の段階で、私のことも事例として取材させてほしいと言われたのです。
これに関しては前に書いたような気もします。
私には「死を看取る」という意識がまったくなかったので、あまり適切な事例とは思いませんでしたが、小畑さんの思いの深さが伝わってきたので、協力させてもらうことにしたのです。
そして、その本が出来上がり、私のところにも届いたのです。
とても清楚な装丁で、内容もとてもしっかりした書籍に仕上がっていました。
私の話を素材にした物語も取り上げてくれていました。
それを読み出して、思い出しました。
出帆の前に原稿を読ませていただき、ひとつだけ注文したことを。
事実をベースにして編集してくださっていますので、私は仮名で登場しています。
それはいいのですが、どうも読んでいて、落ち着かないので、節子の名前だけは変えないでほしいとお願いしたのです。
私の名前は仮名に変わっています。
ですから、別の名前の人が、節子の夫になっている。
読み出して、それがとても奇妙な感じなのです。
ライターの方がとてもうまくまとめてくださっていますので、内容に違和感があるわけではありません。
むしろ私の不十分な話をとてもうまくまとめてくれています。
にもかかわらず、節子の相手は「修」でない人なのが、とても奇妙に感じるのです。
小畑さんは、こう書いてきました。
奥様の聞き取りをさせていただきながら、そんなことはありません。
佐藤さんのお気持ちを十分にまとめられなかったような気がします。
それについても、申し訳なく思うばかりです。
私の気持ちは的確に受け止めてもらい、的確に表現してもらっています。
でも、だからこそ、なにやら奇妙な気がするのです。
名前の持つ霊力のようなものを、改めて感じました。
まだその本は、私の部分も含めて、読み終えてはいません。
ちょっと勇気が必要なような気がしています。
どうも私はまだ、現実から逃げているようです。
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