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2012/09/06

■節子への挽歌1831:共生き

節子
ちょっと思うことが会って、DVDに録画していた「日本人は何を考えてきたのか」の第7回「魂のゆくえを見つめて」をもう一度、見ました。
これで3回目です。
そのなかに、先の東北大震災時、最後まで防災無線で町民に避難を呼びかけ続けていた南三陸町職員のいた防災対策庁舎が出てきます。
そこにつくられていた死者を弔う献花台のまえで、作家の重松清さんと東北学の赤坂憲雄さんが、語り合っていると、一人の住民が自転車でお参りにきます。
その人は、礼拝した後、そこに供えてあった缶コーヒーを飲んで、拍手をしたのです。
あっけに取られたように、それを見ていた重松さんは、凄い宗教的なものを感じたと言い、赤坂さんも「飲みましたよね」と驚きを隠しませんでした。
そのシーンを、今朝、急に思い出したのです。

その風景を巡って、お2人は話すのですが、そこに「死者と共に生きる」という言葉が出てきます。
浄土宗でいう「共生き」です。
一時期、「共生」という言葉が流行りましたが、何やら軽い感じで、私はむしろこれまでも「共生き」という言葉のほうが好きでした。
20年ほど前にある地域のまちづくり計画にかかわった時にも、「共生き」を基本しましたが、たぶん「共生」としか受け取られなかったのかもしれません。

私の勝手な解釈ですが、共生は共時的な生活概念であるのに対して、共生きは通時的な生命概念ではないかと思っています。
何となくそう思い続けていたのですが、このシーンにこそ、その本質的なメッセージがあるのではないかと思い立ったのです。
そして、今の私はまさに「共生き」を理解しうるのではないかと思ったのです。

この番組は、柳田国男や折口信夫をテーマにした番組でしたから、まさに「魂」が語られています。
しかしそういう語りよりも、この住民の行動は鮮やかに、魂の本質を語ってくれたような気がします。
私は、そのメッセージをきちんと受け止めていませんでした。
それに今朝、気づいたのです。

向こうにいる死者に祈るのではない。
死者と共にあることこそ大事なのだ。
重松さんの言葉にそう思いました。
改めて、節子と共にあることを思い出しました。
最近は、それがおろそかになってきています。

昨今の日本社会は、死者と共にある生き方が失われつつあります。
いやもうほとんどすべて失われてしまったかもしれません。
そうした風潮に流されることなく、共生きを大事にしようと思います。
位牌壇へのお供えの仕方を変えなければいけません。

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コメント

今、再放送を見ていたのですが、このシーンを見逃しました。
様子を教えていただけたらとても嬉しいのですが。
突然申し訳ありません。

投稿: N | 2013/01/06 01:47

Nさん 
知りたいのは、重松さんと赤坂さんの会話の内容ですね。録画してあるDVDを見直してからまたご連絡するようにします。いまそのDVDが手元にないものですから。少しお待ちください。

投稿: 佐藤修 | 2013/01/07 09:45

Nさん
遅くなりました。
DVDを見直しました。始まって1時間20分過ぎのところのシーンでした。
供えられていた缶のお茶らしいものを飲んでから、お祈りをする人のシーンを思い出して、重松さんがこういいます。
「あの光景に気高さを感じた。手を合わせ冥福を祈るだけではなく、死者に向かって、一緒ですよと言っている」。
それを受けて、赤坂さんは、「西欧の発想の共生には、生きている人たち同士のことだが、共生きは、生ける者と死せる者とが一緒に生きているという感覚がある」と話します。
そこで、死者たちの記憶が何よりも大切、記憶を語り継ぐ聖地にしていくことが大切、というような発言が続いています。

投稿: 佐藤修 | 2013/01/12 12:09

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