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2012/09/12

■節子への挽歌1836:看病失格

節子
今年の夏は暑かったせいか、体調を崩したお年寄りが多かったようです。

今日、街中で突然に声をかけられました。
最初はすぐに思い出せなかったのですが、以前、まちづくり関係でご一緒したOさんでした。
Oさんは、私よりも若い女性ですが、仕事人生で、結婚せずに仕事三昧だっ地域活動をしたいといって、私たちの仲間になったのです。
しかし、そのグループの活動が最近停滞していて、あまり会う機会がなくなっていたのです。

久しぶりですね、というと、暑さのために母が倒れて危篤状況になってしまったのよ、と言うのです。
そして、話しだしました。
幸いに母上は危機を乗り越えたそうですが、認知症が進み、大変のようです。
いまは毎日、この暑さの中を、入院している遠くの病院まで通っているようです。
汗が噴き出すほどの様子を見て、お母さんも大事だけど、自分が倒れないようにしないとね、と言いましたが、実は最初、声をかけられた時に、すぐOさんだと気づかなかったのは、この1か月ほどの大変さのせいかもしれないと思いました。

Oさんの顔が変わっていたわけではありません。
しかし人は、顔だけで人を識別はしません。
似顔絵の難しさがよく話題になりますが、意外と顔は見ていないものです。
なんとなく全体の雰囲気が、以前のOさんとは違っていたのです。

雰囲気と言えば、昨日、新潟から会いに来てくれたKさんも、いつもと雰囲気が違いました。
どこがどう違うとは説明できないのですが、明らかにいつものKさんではありませんでした。
部屋にはいってきた途端にそれを感じました。
そして、別れ際に、その理由がわかりました。
Kさんが、心の内にある心配事をポロっと口にしたのです。

人はみな、重荷を背負って生きています。
その重荷が、もしかしたら人の雰囲気を変えていくのかもしれません。
昨日のKさん、今日のOさん、いずれも重荷を口にできる人がいなかったのかもしれません。
その重荷を何の遠慮もなく打ち明けられる人がいるかどうか。
私には、5年前まで節子がいました。
ですから私はどんな時にもストレスを溜めることはなかったのです。
しかし、そのストレスはもしかしたら節子が背負っていたのかもしれません。
そして逝ってしまった。
そうだとしたら、なんと罪深いことでしょうか。

Kさんの重荷も、Oさんの重荷も、私にはあまり関わりのない重荷です。
しかし、一度、それを聞いてしまうと、なぜか頭から払い除けることはできません。
だからと言って、何をすることができるわけでもありません。
にもかかわらず、何となく疲労感を感じます。
それに気づいたら、さぞかし節子は私のために重荷を背負わされていたのだろうなと気づかされました。
ややこしい話ですが、節子の発病後に抱え込んだ私の重荷は、実は私ではなく節子が背負っていたのです。

私は結局、節子を看病していなかったのかもしれません。
先日、娘と話していて、感じたこともそのせいかもしれません。

もう一度、節子を看病できるのであれば、今度は間違わないようにしなければいけません。
来世もまた、私が節子を見送るのかもしれません。
なんだかそんな気がしてきました。
私が見送ってもらえるのは、どうやら来世の次の來々世のようです。

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