■節子への挽歌1850:走りすぎたり、止まりすぎたり
節子
動かないと動けなくなります。
意思と行動とどちらが先かについては、面白いテーマですが、最近の研究の成果は、どうも意思より先に行動があると言われてきています。
体験的に私も、そう思います。
このところ、山のように課題が積みあがっています。
そういえば、半年前もこんな状況だったような気もします。
そしてやりすぎて、ダウンしてしまったような気もします。
しかし、やらないと課題はどんどん積もりあがっていきます。
そこで、ようやく動こうと思い出しました。
もちろん動きたくはありません。
静かに涅槃の境地を漂いたいですが、課題を捨てられない限り、それは無理です。
そこで、思い切って、連絡をとらなければいけない人たちに連絡を取り出しました。
取り出すと動かざるを得なくなります。
大阪に行く約束までしてしまいました。
動き出すと不思議なもので、動き出せるようになるばかりか、動きたくなるものなのです。
そして動き出しすぎて、ダウンしてしまう。
節子を見送ってから、実はこの繰り返しです。
走りすぎになったり、止まりすぎになったりしてしまうのです。
要するに、生活のリズムが維持できないわけです。
伴侶を失った人の多くは、たぶん同じ体験をしていることでしょう。
でもまあようやくまた動き出せるようになりました。
動き出すと、これも不思議なのですが、まるでそれを知っていたかのように、交流が途絶えていた人から連絡が入りだします。
そうしたことを何回か体験すると、すべての生命は共鳴しているのではないかとついつい思ってしまいます。
今年の秋のお彼岸も終わりました。
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