■節子への挽歌1841:長寿への不安
節子
今日は敬老の日です。
節子は、敬老の日に祝ってもらうことなく、逝ってしまいましたが、私はその歳になってしまいました。
もっとも、だからといって、娘たちからも友人たちからも敬われてはいないのですが。
先日の新聞報道では、日本では100歳を超えた人が5万人を超えたそうです。
高齢になっても元気な人が、幸せなのかどうか、私にはわかりませんが、少なくとも2人そろってお元気な夫婦を見ると、なんとなく自分も幸せな気になります。
しかし、一人で長寿を迎えた場合はどうでしょうか。
私には、死への恐怖感はあまりありません。
本などで「だれもが死への恐怖を抱いている」というような文章に出会うと、とても違和感があります。
そもそも「死」は実感できませんから、恐怖感を持ちようもないのです。
死と直面したはずの節子も、死への恐怖はなかったように思います。
もちろん「生きつづけたい」という思いは強くありましたし、「次の誕生日は迎えられるかなあ」とさびしそうに私に言ったことはありますが、たぶん「恐怖」というようなものではなかったように思います。
少なくとも、私はそう思いたいです。
ところで私ですが、死への恐怖はないのですが、長寿への恐怖はあります。
節子が先に逝ってしまったことで、すでに長生きの恐ろしさをすでに実感していますが、節子がいないまま、これからあと何年生きつづけるかと思うととても不安になります。
いまは娘たちがよくしてくれますし、友人たちにも恵まれています。
しかし、最近は彼岸に旅立つ友人も少なくありません。
私より若い人たちも少なくありません。
この頃、時々、私だけが取り残されるのではないかとふと思うことがあるのです。
それほど恐ろしいことはありません。
願わくば、私自身は長寿でないことを祈ります。
もうすでに長寿だと言われそうですが、兄よりは先に逝くわけにはいきません。
私が恐れている恐怖を、他者に与えることはできないからです。
長寿者がテレビで報道されるたびに、私は思います。
本当に幸せなのだろうかと。
敬老の日は残酷な祭日です。
老人を敬う気のない人がきっと考案したのでしょう。
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