■節子への挽歌1848:意味の反転
節子
季節の変わり目は、やはり少しだけ感傷的になります。
節子がいた頃には、季節の変わり目はむしろ生活の節目になって、前に進む契機になっていましたが、いまは逆に進む力を吸い込むような落し穴のような気がします。
なぜか「気が起きない」のです。
節子がいた時といなくなってからでは、物事の意味が反転したことはたくさんあります。
前であれば、幸せな気分になった事が、いまは心に寒い風を呼び込むことさえあります。
意味や価値を共有する人がいないだけで、こんなにも世界の風景は違うのかと、自分ながら不思議なのですが、それが事実なのだから仕方がありません。
秋は、節子の好きな季節でした。
紅葉狩りに、よく付き合わされました。
最後の年には、伊香保で見事な紅葉を見たような気がします。
素晴らしい日本海の落日を見たのも、秋でした。
しかしもはや、紅葉も落日も、美味しい果物も、私を幸せにはしません。
秋は、ただただ、さびしい季節になってしまいました。
節子が好きだった季節を、一緒に楽しめないことはさびしいことです。
自分ひとりでは、楽しめないのです。
美しい風景を見れば見るほど、さびしくなる。
これは何回も体験したことです。
美しい風景を見て、涙が流れるようになったのは、節子がいなくなってからです。
感動が涙につながりやすくなったのも、節子のせいかもしれません。
ようやく精神的に安定したかなと、最近、思い出していたのですが、秋の到来は、その自信を見事に打ち砕いてくれました。
人を愛するということは、実に哀しく、実に悩ましい。
執着と煩悩から、抜け出せずにいる自分が、時にいやになります。
節子のことがなければ、私はかなり解脱していると思えるようになってきているのですが、愛への執着はなかなか超えられません。
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