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2012/09/05

■節子への挽歌1830:意識と心身のずれ

節子
命日の後は毎年そうなのですが、なんとなく厭世観が強まります。
意識的にはむしろ、自分を奮い立たせようとするのですが、意識と心身は同調しません。
そのずれに、逆に疲れが出てくるのが、この季節です。
夏の疲れもあるのでしょうが、意識と心身のずれが一番大きな季節で、私には苦手です。

人の意識と心身は、それぞれ勝手に動きます。
その上、意識はひとつではありません。
節子がいた頃は、自然とそのバランスが取れていました。
自分の人生を左右する大きな事柄に出会うと、それが壊れてしまいます。
そうした状況で、心身と意識の双方と付き合うのは、いささか辛いものがあります。

私の場合、歳をとるにつれて、心身の動きに任せるようになってきています。
若い頃は、自分の「意識」を大事にしていましたが、最近は、意識などは瑣末なものと思えるようになってきました。
しかし、「意識」はまだまだ健在で、時に心身を邪魔します。
特に、他者と話している時などは、ついつい「意識」に従ってしまいます。

私は人と話すのが大好きです。
しかし、大好きなのに、多くの場合、ひどく疲れるのです。
なぜこんなに疲れるのか、と節子にも話したことがありますが、その疲れはたぶん「意識」と「心身」のずれから来るのです。
さらにいえば、私の心身は、実はあまり人に会いたくはないのかもしれません。
にもかかわらず、人に会って話をしたいという「意識」がある。
いつの頃からか、その「意識」が私を主導しだし、いまや乗っ取られたような気もします。

厭世観に関しても、最近、ある気づきがありました。
「厭世」という時の「世」は、いうまでもなく此岸です。
その此岸に、最近、人がいなくなってきたという気がしてなりません。
私が変わったのではなく、「世」が変わってしまった。
はっきりといえば、私にとって、此岸は今や「幽界」に近いのです。

心身で感ずる「世」と意識で感ずる「世」は違います。
「好きだけれど嫌い」という、矛盾した思いを持つことは、誰にもあることでしょう。
それこそが、心身と意識のずれだと思いますが、そのずれがバランスしてくれるまで、もうしばらく私の行動量は減少し続けそうです。
一見するといろいろと動いているようで、実は動いていない。
それがまた大きなストレスにもなっています。

ちょっと言い訳的な挽歌になってしまいましたが、実は節子に救ってほしいという祈りの挽歌でもあるのです。
SOSを受け止めてくれる人がいないのは、とても辛いことです。
たぶん、私だけではないのでしょうが。

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