■節子への挽歌1851:書く自分と読む自分をつなぐ者
節子
今日、電車に乗っていたら、向かいの席に老夫婦が座っていました。
奥さんのほうが、ひっきりなしに夫に向かって話しています。
夫はほとんど話しません。
話の内容はさりげない日常会話です。
次の駅はどこかとか、だれそれはどうだったとか、断片的な話なのですが、ともかく途切れることはなく、私が降りるまでずっと話をしていました。
私は反対側の席でしたが、その途切れることのない一方的な会話に、感激していました。
そうか、人は相手の相槌がなくても話し続けられるものだと思ったのです。
しかし、それはよほどの自信がなければ持続できないかもしれません。
相手が返事をしなくても相手が聴いてくれているという自信です。
電車を降りてから、気がつきました。
この挽歌も同じようなものではないか、と。
節子に語っていますが、いまだかつて、節子からの明確な返事も相槌もありません。
にもかかわらず、私は書き続けています。
特定の人との関係において意味があるのは、会話ではなく、話すことなのかもしれません。
読んでもらうことではなく、書くことかもしれません。
そう考えた時、この挽歌は誰に向かって書いているのだろうかと改めて思いました。
そう考えると、またさらに考えてく視点が開けていきます。
書く自分と読む自分。
書かせる自分と読ませる自分。
そこに、実は節子の影があるのです。
秋になると、人は哲学的になるものです。
ようやく秋が始まりそうです。
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