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2012/09/27

■節子への挽歌1852:社会との不整合と不安感

節子
またある人が寄付をしてくれました。
最近はほとんど仕事をしていないのですが、時々、こうやって私の活動に寄付をしてくれる人がいます。
感謝しなければいけません。
それが大きな支えになっています。
いずれも、節子と一緒に活動していた頃からの知り合いで、節子も知っている人たちです。
私たちの生き方が受け容れられているようで、元気が出ます。

その一人の方が電話をくれたので、寄付してもらうのはうれしいが、何か私のできることはないですかと質問したら、言下に「ない」と言われてしまいました。
私も経営コンサルタントなので、会社経営の役には立てるはずなのですが。

しかし、その一方で、私の言動が原因で、友人を失っていることもあります。
昨日書いた、官僚批判を読んだ人が昨夜メールをくれました。
その人も官僚なので、気分を害したのでしょう。
たしかに気分を害されてもおかしくない文章を書いたのですから、その非難は甘んじて受けなければいけません。
返事は書きましたが、不快さは元には戻せずに、せっかくのつながりが切れてしまうかもしれません。
こうしたことが時に起きます。
節子がいた頃は、他者を批判する文章を書く時にはチェックしてもらいましたが、それがなくなると暴走しがちです。
困ったものです。

こういうことが起きると、身を縮めたくなるのですが、それはやはり私の生き方ではありません。
体制との不整合は、私の生き方のせいなのです。
それをうまく調整したり、私の精神の安定を保ってくれたりしていた節子がいなくなると、その不整合のひずみを解消できないままでいます。
それが私の最近の不安感の原因かもしれません。

伴侶を失った場合、社会から引退するのが正しい生き方だと思うことが時々あります。
これに関しては、明日、少し書いてみたいと思います。
書けたら、ですが。

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コメント

こんばんは。ご無沙汰しております。

以前は「ぷーちゃん」と名乗っていましたが「プーちゃん」に変えました。
妻は生前、僕を「プーちゃん」と呼んでいました。
自分では「ぷーちゃん」だと思っていましたが、妻にとっては「プーちゃん」でした。
妻から来たメールには「プーちゃん」と書いてあったので…
どうでもいい話ですね、すみません。

「伴侶を失った場合、社会から引退するのが正しい生き方だと思う」。
僕もまったく同感です。
妻が亡くなってしばらくの間、僕は会社を辞めて、僧侶になろうと考えていました。
残りの人生、かみさんの供養のために使おうと考えていました。

ですが、修行中はほとんど収入が無い、だとすると、マンションのローンの返済ができなくなります。
今住んでいるマンションは、かみさんが愛したマンションです。それを手放すことになったら、かみさんに申し訳ない。
僧侶になるのは諦めました。

でも本心を言えば、会社を辞めたい、俗世間から引退したいと思っています。
僧侶になるのは定年退職して、ローンの返済が終わってからでも遅くはないと考えています。

一昨日、ブログを開設しました。
当分の間は、かみさんと僕の闘病記になると思います。

佐藤さまにお願いがあります。
佐藤さまのブログを僕のブログのリンク集に入れさせて頂きたいと考えています。
突然、ぶしつけなお願いをして申し訳ありませんが、ご検討いただければと存じます。

投稿: プーちゃん | 2012/09/27 20:45

プーちゃん
もちろん大歓迎です。
相互リンクでもいいでしょうか。

投稿: 佐藤修 | 2012/09/28 17:31

返信ありがとうございます。
相互リンクでも結構です。
早速、リンク集に入れさせて頂きます。

投稿: プーちゃん | 2012/09/28 17:38

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