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2012/09/19

■政府の「安全宣言」と工場の「安全宣言」

オスプレイ安全宣言が出されるそうです。
そういえば、原発安全宣言も出されました。
野田政権はどうも「安全宣言」が得意のようです。

私が知っている「安全宣言」は、工場などで出されるもので、「みんなで安全に留意しよう」というものですが、最近の政府の安全宣言は、「安全を保証する」もののようです。
安全であるものに「安全宣言」は不要ですから、安全宣言を出すということは安全でないことを示していることはいうまでもありません。
最近の政府の「安全宣言」は、実際には安全ではないものを安全とごまかす政治手法ですが、その危険性は「原発安全神話」で、私たちは痛いほど学んだはずです。
にもかかわらず、野田首相は「安全宣言」が好きです。

安全宣言によって、安全でないものに対する注意がかき消されるわけですから、工場現場などでの安全宣言とは正反対の効果を発揮します。
つまり工場現場の安全宣言は安全への意識を高めますが、政府の政治的安全宣言は安全への意識を消してしまうのです。

工場の安全宣言は、自分たちで安全を守ろうという宣言です。
政府の安全宣言は、他者を説得するための宣言です。
また、前者は「安全を目指そう」ですが、後者は「安全だ」という意味合いです。
同じ「安全宣言」でもまったく意味合いは違うのです。

そもそも「安全だ」などと保証できるものは、この世には存在しません。
「安全です」と言い切るのは、安全でないモノやサービスを売りたがっている人か、むりやり自らの意向を押し付けようとしている権力者以外にはいません。
つまり、そこでは「安全」という言葉が実態隠しのために利用されているのです。

経済行為の場合は、しかし、安全と言われても、それを判断するのは購入者です。
安全と言われても、自分で納得できなければ買わなければいいのです。
しかし政府の安全宣言は、全く違います。
仮に安全を納得できなくても、原発が動き出したり、オスプレイが飛行しだしたりしたら、その危険から抜け出す事は極めて難しいでしょう。
そして、万一、危険が現実のものになっても、責任を取るのは個人ではありません。
野田首相は、原発事故にもオスプレイ事故にもたぶん何の責任も取らないでしょう。
彼は当事者ではないからです。
彼は政府機関というシステムの歯車でしかありません。
ちなみに「政治生命」などと言うのは、本人には意味があるかもしれませんが、他者には何の意味もありません。
「政治生命を賭けて」などとまじめな顔で話している人を見ると滑稽でしかありません。
責任をとるのは、その決定を押し付けられた国民です。
福島原発事故に、中曽根元首相がなにか責任をとったでしょうか。
やりきれない気持ちです。

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