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2012/09/26

■ニセ医者事件に思うこと

今日はかなりの非難を覚悟で、暴論を書きます。
ニセ医者事件に関連して、です。
昨年も話題になりましたが、医師免許を偽造して健康診断医師として仕事をしていた人が逮捕されました。
そのことに関する暴論です。

こうした事件が起きるたびに、なんでこんなに非難されるのだろうかとつい発言してしまって、娘から注意されています。
娘から、もしかかった医者がニセ医師だったらどうするか、と問われて、結果が悪くなったら運が悪かったと思うだけだとは答えたものの、実のところ、不安になるかもしれないなと思ったりしています。
ですから、我ながら歯切れは悪いのですが、それでも、まあ書いてしまいましょう。
なにしろいつも気になることですので。

私は、お上が認める「資格」にまったく興味がないというか、その意味をあまり理解できない人間です。
私が持っている資格は、自動車運転免許くらいですが、明らかに私は運転がうまくないので、家族からも止めろといわれて、もう10年ほど運転をしていません。
免許を更新するのも、次回はやめようと思っています。
ですから、たぶん資格なるもの者はこれでなくなるでしょう。
そういう資格を何も持たない人間のたわごとかもしれません。

医師免許がなければ医療行為ができないということの意味は、一応、理解しています。
しかし、医師免許なるものがあれば、それで医療行為が正当化されるかということには異論があります。
逆に、医療免許がなくても利用行為はできるだろうと思っています。
医師法で、看護師と医師との権限領域が決まっているようですが、これも全く理解できません。
資格とは専門職者による権益の囲い込みだという人もいますが、私は必ずしもそれには賛成しません。
しかし、百姓的な生き方を理想と考える私としては、人がやれることを制度で決めることには違和感があります。
だから資格にはまったく関心を持たずに、生きてきました。

つい最近、I-phone販売で、下取りをしたソフトバンクが下取り業の免許がないからと指摘され、手続きを変えた事件がありました。
これなども全く馬鹿げた話です。
ともかくこうやって、日本の官僚は権益を守り、民の汗と知恵から利益を取っているわけです。
勝手な掟をつくって、民を収奪していた悪代官の文化はまだしっかりと残っています。

実はこうした仕組みはたくさん残っています。
電力販売規制もそのひとつです。
あげていけばきりがない。
それが日本の官僚の力の拠り所です。
それをまねた仕組みは。文化やスポーツ、宗教など、さまざまなところに広がっています。

話をニセ医師問題に戻せば、医師免許がないのに医療行為をしたことを批判するのも、もしかしたら医師免許というお上のルールを後生大事にする文化のひとつではないかと思うわけです。
たしかに、医師免許を偽造したり、自らを偽ったりしたことは悪いことです。
なぜ悪いかといえば、「秩序」が壊れるからです。
秩序が壊れるのを恐れるのは、お上の側にいる人の発想です。

ニセ医師が広がることに賛成しているわけではありません。
資格詐称も賛成はしません。
しかし、「それはそれとして」、医師免許さえあれば医療行為ができる、あるいは医師免許がなければ医療行為ができない、そのことを当然だと思っている「常識」に、私は異議申し立てしたいと思います。
どうしてみんな、これほどにお上の権威に従順なのでしょうか。
それが私には一番不思議です。

また読者から辛らつなお叱りと非難が届くでしょうね。
書かなければよかったでしょうか。
でもまあ、今はすっきりしました。

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コメント

仕事場に「ある心臓外科医の裁判」が置いてあり、めったに本を読まない私が1日で読破してしまいました。このワードで検索をかけていてこの場へ辿り着きまして、本記事を読ませて頂きまして、長文になりますが、私の思うところを述べさせて頂きたいと思います。

「資格・免許」というものは、その行為を行うにあたり、対象者への安全、安心を保証しうる指標でもあるのではないでしょうか。私は「医師免許がなければ医療行為ができない」というのは「常識」でよいと思います。対象者(患者)は診療を行っているのが医師免許を有する人物であるからこそ安心して我が身を委ねるのであって、診療を行っているのが一般人であれば我が身を委ねるひとはいないでしょう。運転免許、教員免許、調理師免許などなど、無免許であった場合、損害を受ける可能性があるのは自身ではなく「対象者(同乗者や通行人、学童や学生、ご飯を食べにきた人々)」だと思います。これらの人々に、安全、安心を与えるための「資格・免許」ではないでしょうか。
従って「資格・免許」を得た人間は、それ相応の義務と責任を負わなければならないのは当然だと思います。よって「医師免許さえあれば医療行為ができる」というのは拡大解釈であり、非常識と思います。医師免許を有していても人格、知識、技量ともに不十分な医師や、「〜専門医」という資格を有していても未熟な医師がいると思います。冒頭に「保証しうる指標」と表現したのはそのためで、残念ながら指標になっていない場合もあると思います。免許を取得した人間の、自覚と責任が大切だと思います。

医師免許は、「これがあれば医療行為ができる」のは事実かもしれませんが、「免許を与えるから自覚と責任を持って医療行為をしなさい」ということではないでしょうか。実際のところは、権益の囲い込み等々なのか私にはわかりませんが、もっと崇高なものであるべきだと思います。

長文失礼しました。気分を害されたのであれば、申し訳ございません。

投稿: 三本指 | 2012/10/01 20:54

三本指さん
ありがとうございます。

コメントへのお返しが遅くなってしまいました。
今朝の新聞に、教員資格の更新手続きを忘れて資格を喪失した先生の事が書かれていたので、コメントをし忘れていることを思い出しました。
すみません。

「本など読まない私が1日で読み上げた」というところが一番気になりました。
何らかの意味での「当事者」の方でしょうか。

お書きになられていることには、とても納得します。
そう思います。

ただその上で、私が指摘したかった事は、「医療行為」がある権力によって、定義されることへの懸念とそれに疑問を抱かない風潮への異論でした。

それと医療訴訟の問題ですが、医療訴訟が医療の世界をもし萎縮させているような事があれば、それに関して、もっと世論が高まるべきではないかと思っています。
いつかそんなテーマで、話し合う場を持ちたいと思っています。
もし三本指さんが首都圏在住であれば、いろいろと話し合いたいと思います。

ありがとうございました。
いつかお会いできますように。

投稿: 佐藤修 | 2012/10/10 08:43

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