■節子への挽歌1849:生きるとは自らを愛すること
節子
この歳になって、いささか気恥ずかしいですが、今日は「愛」の話です。
人はみな自分を愛しています。
それが「生命の本質」だからです。
もし自らを愛していない生命がいたら、決してその生命は持続できないでしょう。
生きるとは自らを愛すること、と言ってもいいでしょう。
誰かを愛するということは、愛する対象を自分から誰かに移すことではないかと、最近思えるようになりました。
自分への愛を残しているような愛もあるでしょうが、人を愛するということは、愛する対象が変わることなのではないかと思います。
言い換えれば、自らを無にすることです。
あるいは愛する対象に自らを委ねることです。
委ねてしまうとどうなるか。
自分がなくなってしまうわけです。
では、自分がないのに、他者を愛することができるのか。
愛する主体がなくなれば、愛するという行為もなくなるのではないか。
そこが悩ましいところなのですが、最近、その答が見つかりました。
自分がなくなるのではなく、自分が愛する対象と一体化してしまうのです。
そう考えると、すっきりします。
自らを愛するという生命の本質に合致するからです。
ですから、愛するとは自らを他者に合体させると言うことになります。
自らと他者との境界がなくなって、大きな意味で同一の存在になる。
もしそれが愛であれば、愛こそが人生を平安にし、世界を平和にしてくれるでしょう。
それは、不死にもつながります。
愛した存在がなくなったらどうなるか。
これも考えやすくなります。
愛の存在は、実はなくならないのです。
他者である妻を愛することができれば、ほかの他者も愛することができるはずです。
それは特定の存在に執着する愛ではありません。
生命を、さらには存在を、すべてそのまま受け容れ、自らとの境界をなくすことです。
執着する愛から、執着から解放された愛へ。
昨日、NHKの「こころの時代」で、鈴木大拙さんの話が取り上げられていました。
それを見ながら、行き着いたのが、その番組とはあまり関係ないのですが、この考えでした。
これまでどうも退屈だった大拙さんの話が、突然に理解できたような気になってきました。
改めて読み直してみようと思います。
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