■節子への挽歌1838:感謝の形
節子
節子がいなくなってからも、私が不自由なく暮らせているのは娘たちのおかげです。
その感謝の気持ちが伝わっているかなあ、と今日、ユカに話したら、お父さんは感謝の気持ちを形にしないよねと指摘されました。
そして、お母さんに感謝の気持ちを形で示したことはないでしょう、と言われてしまいました。
たしかにそういわれると自信がありません。
「ありがとう」という言葉は、節子にも娘たちにもよく使っていると思いますが、やはりもっと形にすればよかったと思います。
前にも書きましたが、私は贈り物が不得手です。
節子は、私から贈り物をもらった記憶はほとんどないでしょう。
私が節子にあげたプレゼントで、思いだせるのは一つだけです。
それも結婚前で、風邪を引いて会社を休んでいた節子に、節子の友だちに頼んで、犬のぬいぐるみを持っていってもらったのです。
何で犬のぬいぐるみか、理由が思い出せませんが、記憶にあるのはそれだけです。
たぶん節子は、私からのプレゼントは諦めていたでしょう。
節子は私と違って贈り物の文化を持っていました。
私が最初に節子からもらったのは、おばけのQ太郎の刺繍入りの手編みのセーターでした。
そのセーターをもらったお礼に何かを返礼した記憶もありません。
もらったセーターをよく着ることが、私の返礼の感覚なのです。
感謝の気持ちを形にするのは贈り物だけではない、と娘は言います。
贈り物以外で、なにか形にしたことはあったでしょうか。
あるといえばありますが、ないといえばない。
娘は、「贈り物」には「意外性」がなければいけないと考えています。
いわゆる「サプライズ!」でしょうか。
たとえば普段行くことのない高級レストランでの食事や高級ホテルでの宿泊です。
残念ながら、そういう経験は一度もありません。
節子に「サプライズ」をプレゼントしたことがなかったとは、実に悔いが残ります。
いまもテレビなどでちょっと贅沢な旅館やレストランを見ると、心が痛みます。
節子には、一度たりとも「贅沢」を体験させてやらなかったのです。
節子は、そんなことを望んではいませんでした。
それは間違いありません。
しかし、だからこそ、そうしたことが「サプライズ」になるわけです。
そして、それこそが「感謝の形」なのかもしれません。
節子は、たぶん私と結婚したことで、サプライズの連続だったと思いますが、私の感謝の気持ちを、時に「サプライズ」の形にして贈られることを望んでいたでしょう。
それに気づくのが遅すぎました。
もっとも、節子は今もなお、そのことに気づいていないかもしれませんが。
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