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2012/09/07

■節子への挽歌1832:不幸ではなく、祝うべきような死

節子
昨日、供え物を死者と共に飲み、柏手を打った人のことを書きました。
柏手は神道の作法で、墓前では手を打ちません。
しかし私は、以前からお寺の仏を前にして、柏手を打っていました。
最初は節子に注意されましたが、長年のうちに、節子もそれに馴染んでしまいました。
仏前の法事では、柏手は打ちませんが。
しかし、3日の命日にも、墓前でわが家の家族はみんな柏手をしました。

神道では、左手は火としての霊、右手は水としての身を意味すると言います。
左は火足(ひたり)、右は水極(みぎ)というわけです。
柏手は、霊に身を託す象徴的仕草といえます。

ある人から「天地明察」という小説が面白いと聞きました。
それで読もうと思い、その本を頼んでいたのですが、一昨日、届きました。
落ち着いたら読むつもりでしたは、昨日の朝、少し時間があったので読み出してしまいました。
そうしたら実に面白く、止められなくなりました
予定を変えて、昨日読み終えてしまいました。

江戸時代の天文暦学者の渋川春海の話です。
この小説「天地明察」は、映画化され間もなく公開されるそうで、しばらくはブームになるでしょう。

柏手の話は、「天地明察」にも出てきます。
春海は神道家でもあったからです。
こんな文章も出てきます。

神道は、ゆるやかに、かつ絶対的に人生を肯定している。
死すらも「神になる」などと言って否定しない。

節子もまた、神になっている。
死は決して終わりではなく、始まりだという神道の考えは、心を和らげてくれます。

「天地明察」は筋書きがおもしろいのですが、主人公が関わる算術や囲碁に関する話もとても興味深いものがあります。
登場人物はたぶんすべて実在の人物ですが、それがまた面白い。
水戸光圀や江戸幕府重臣たちの人物像も、それぞれに表情豊かに書かれています。
しかし、私の心に一番残ったのは、筋書きの面白さでも博学的な情報ではなく、最後の4行でした。
実にうらやましく、恥ずかしながら、涙が出たほどです。
主人公の春海は後妻のえんと、2人にはゆかりの深い神社を訪ねたという話の後に、その4行が書かれ、小説は終わっています。

それから数日後の10月6日。
春海と後妻、ともに同じ日に没した。
残された家人たちは、最期まで仲むつまじい夫婦であった、まったくお二人らしいことだと、まるで不幸ではなく、祝うべきことでもあったかのように話している。
世界には、幸せな人もいるものです。

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