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2012年10月

2012/10/31

■久しぶりの梅田

久しぶりに大阪の梅田を歩きました。
まず驚いたのは大坂駅がまったく雰囲気を変えていたことです。あまりにもモダンで戸惑いました。
東京と同じように、大阪も私には遠い世界になっていってしまいそうです。
時間があったので、阪急梅田の地下街にも行ってみました。
ところがここはほとんど変わっていません。
もう20年以上前になりますが、会社時代には時に毎週のように大阪に出張で来ていました。水が流れる地下街が好きだったので、よく梅田の地下街で食事をしたのですが、当時とほとんど変わっていません。
少しホッとしました。

最近どこに行っても自分の居場所が見つけにくくなって来ています。
この10年ほどで、都会の雰囲気は大きく変化しているように思うのは私だけでしょうか。
一言で言えば、女性化です。都会の風景として、女性のほうがなんとなく合うのです。
あるいは女性化したファッショナブルな若いビジネスマンもお似合いです。

いま京都に向かっていますが、京都駅も私にはちょっと違和感のある場所になってしまっています。
どうも時代について行き損なっているような気がします。

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2012/10/30

■節子への挽歌1886:米原での心揺らぎ

今日は仕事の関係で大阪に向かっています。
いま米原を発車したところです。5分ほどの停車でしたが、何やら心が穏やかではありません。
名古屋までずっと資料を読んだり、iPadを見たりしていて、車窓からの眺めをあまり見ていませんでしたが、岐阜羽島辺りから目が離せなくなりました。
そして米原駅。
しばらく停車ですが、上りのホームがよく見えます。
そして突然の胸騒ぎ。

この光景にはたくさんの見覚えがあるのです。
節子の実家は米原から北陸本線で少し行った高月です。
ですから私たちは毎年、数回はこの米原駅で乗り換えていました。
山のような思い出があります。
そのせいでしょうか。
ともかく心が穏やかではありません。

ここまで書いて、次の京都まで車窓からの風景にみとれていました。
とても懐かしく、とても哀しい気分でした。
米原から京都までの風景は、私が会社に入ってから4年ほどを過ごした場所であり、節子との暮らしを始めた場所でもあるのです。

節子がいなくなってからこんなにしっかりと景色を見たことはありません。
節子がいなくなってから、もう5年。
久しぶりに見た湖南の風景は大きく変わっていましたが、湖北や湖東の風景は以前と同じような気がします。

京都に着きました。
また心がゆらぎます。

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■市民の政治談義は市民の政治参加を妨げる

最近、テレビの番組で「政治」が話題になることが多いです。
しかし、その中身はほとんどが「政局」や「政権争い」の話です。
しかも扱われるのは、タレント性やいかにもみんなの話題に取り上げられるような、あるいは官憲を刺激しないようなものばかりです。石原さんと小沢さんの報道のされ方の違いにそれがはっきりと読み取れます。

石原慎太郎が都知事を投げ出して新党を作ることが大きな話題になっていますが、小沢一郎の動きに比べれば、話題性はありますが、瑣末な話です。老害という人もいますが、そんな話ではなく、挫折するに決まっています。ただマスコミが大きく取りげているために,何か意味がありそうに感じますが、誰も付いていかないでしょうし、付いて行く人がいれば,それはその人の本性が見えてくるだけの話でしょう。

アメリカの政治学者のロバート・ダールは、「政治に対する単なる興味や床屋談義は、自己満足を惹起することによって、かえって市民の政治参加を妨げるという」と言っています。
全く同感です。
日本の政治をダメにしたのは、テレビの政治報道かもしれません。

テレビの政治報道が悪いということは,実は私たちテレビ視聴者の問題でもあります。
私たち同調者がいなければ,テレビでいくら報道してもなにもおこりません。
テレビ番組は,いうまでもなく、制作者と視聴者との共同作品です。

私も政治評論家の田崎さんのファンで、田崎さんが出演しているとどうも見てしまうのですが、話はいつも痴話ばなしに近い政局ばかりです。
バラエティ番組の政治報道は、やはり有害でしかないのかもしれません。

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■節子への挽歌1885:なぜ歳とともに時間は速く進むのか

節子
大発見です。

昨夜、また夜中に目が覚めてしまい、いろんなことを考えているうちに、
歳をとると時間の進み方が速くなってしまうのはなぜだろうかという問題に行き着きました。
そこで大発見をしたのです。

歳をとると人生の残り時間は理論的には少なくなります。
ということは、人生における時間の意味が変わってくるということです。
たとえば、私の余生が10年だとし、娘の余生が40年だとします。
そうすると、今の時点で、1年は、私のすべての持ち時間の1/10ということになります。
ところが娘にとっては、1/40ということになります。
つまり、娘よりも私のほうの時間の進み方は4倍になるわけです。

たとえば浴槽の水を抜く様子を思い出してください。
浴槽の栓を抜いても最初はなかなか水量は減っていきませんが、水が少なくなると見る見るうちに水が減っていくように感じます。
似たようなことはいろいろとあります。

つまり、意識している自らの残りの人生時間(それが正しいとは限りません)が短くなればなるほど、時間意識が高まり、その進み方が速く感ずるということです。
そのため高齢になればなるほど、時間は速く進むように感ずるのです。
なかなか論理的で、おそらく数式で書けばもっと「もっともらしく」なるでしょう。

それがどうしたといわれそうですが、節子は私と違って、次の誕生日は迎えられないかもしれないと意識していました。
だとしたら、その時間の進み方は私たちとは全く違っていたということに気づいたのです。
しかし、その違いに、節子も私も気がついてはいなかった。
いえ、むしろ私たちは、時間の感覚については逆に捉えていました。
たとえば、節子と散歩に行くと、節子の歩く速度は私の1/10以下でした。
だから節子のほうが、時間がゆっくりと進んでいると思っていました。
しかしそれは反対だったのです。
10メートルの坂を登るのに節子は2分、私は10秒とします。
さてどちらの時間が速く進んでいるでしょうか。
いうまでもなく、節子です。
わかってもらえたでしょうか。

だから、それがどうしたというのだと、また言われそうですね。
しかし、なんだかとても大発見のような気がしませんか。
そう思いませんか。
思わない?
やはりこれは体験しないとわからないのかもしれません。

節子がいなくなってから、私の時間感覚はもうぐちゃぐちゃなのです。

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2012/10/29

■節子への挽歌1884:死者をうらやむ気持ち

『苦海浄土 わが水俣病』を書いた石牟礼道子さんが、「3・11と私」(藤原書店)という本に、「花を奉る」という文章を書いています。
その冒頭の詩が心を打ちますが、その1節が、私にはどうしても節子と重なってしまいます。

花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて咲きいずるなり
花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに 声に出せぬ胸底の想いあり 
そをとりて花となし み灯りにせんとや願う

津波を受けた人への思いを節子に重ねてしまう身勝手さには、とても気が引けるのですが、心にその情景が浮かんでしまうと、もう二度と消すことは出来ません。
花はやはり、彼岸への入り口なのです。
節子は、また花になってちょいちょい戻ってくると読みにくい字で書き残してくれました。

それはともかく、石牟礼さんが、それに続いて書いている文章も、考えさせられるものでした。

あの大震災の中、体一本残った多くの人びとが言われた。「自分が生きていて、死者たちに申し訳ない」と。極限的な災難に遭われて、なおひとのことに思いを致し、心配しておられる。尊い心根である。

たしかにそれは「尊い心根」でしょうが、その気持ちは実に自然な感情の発露なのではないかとも思います。
こんなことを言うと、実も蓋もないかもしれませんが、愛する人を見送った人は、たぶん誰もそう思うのです。
もしかしたら、「なんで私ではなかったのだろうか」というのは、本当は逝ってしまった人への羨望なのかもしれません。
それほど愛する人を見送ることは心辛く、心さびしいものなのです。
実は、心配しているのは、送った人ではなく、残された自分なのかもしれないのです。
こうした心境は、微妙で自分でも整理できないのですが、「死者に申し訳ない」と思う気持ちのどこかに、死者をうらやむ気持ちが隠されているようにも思います。

私は、時々、位牌の前で、節子はいいよね、とつい口に出してしまいます。
残された者の辛さと寂しさは、節子にはわかりようはないでしょう。
よく「死者の分まで生きなければ」と言う人がいますが、私にはまったく受け容れられない言葉です。
石牟礼さんのメッセージは、いつも心に沁みますが、なぜか今回は、この文章に引っかかってしまいました。
お恥ずかしいことながら、1週間以上、考えてしまっていました。

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■節子への挽歌1883:節子は映画があまり好きではありませんでした

先日、一緒に暮らしだした時の夫婦の日記らしきものを見つけて、読んだことを書きましたが、そのなかに2人で「プロフェッショナル」という映画を観たという記事がありました。
これは西部劇ですが、勧善懲悪型西部劇から、ちょっとややこしい西部劇への過渡期の作品ですので、私の好みでもありません。
もちろん節子の好みであるはずもなく、おそらく京都にでも行ったついでに、また思いつきで映画館に入ったのでしょう。

ところが、部屋を掃除していたら、なんとその映画のDVDが出てきました。
それで、これも何かの意味があるのだろうと、昨日、観てしまいました。
まあ何の意味も発見できませんでしたが。

私は学生時代、西部劇の映画が大好きでした。
それでおそらく節子はそれにつき合わされたのでしょうが、節子は人がばたばた死んでしまう西部劇や時代劇は好きではありませんでした。
したがって、まあ一緒にそういう映画を観たのは、結婚した直後だけだったでしょう。
節子は、その日記にただ1行、「プロフェッショナル」の映画を観たとしか書いていませんでしたので、感想も何もなかったのでしょう。
そもそも節子は映画そのものも好きではなかったような気がします。
考えてみると、一緒に映画に行った記憶があまりありません。

私は一時期、映画評論家になりたいと思ったほど、映画館通いしていた時期もあります。
趣味は違っていたのです。
節子は映画よりも、美術展やコンサートが好きでした。
そしてそれよりも、自然が好きでした。
おそらく節子が私の映画に付き合ったのは、結婚後、数年は別として、年に数回でしかありません。
私は一人で映画を観に行くのは好きではないので、どうしても観たい映画は節子を誘いましたが、私もだんだん映画館に行かなくなってしまいました。

ところで映画「プロフェッショナル」ですが、もっと節子向きの映画を誘えばよかったと反省しました。
そういえば、「大いなる西部」も節子と一緒に観た記憶がありますが、あの映画で節子はグレゴリー・ペックのファンになりました。
こうやって思い出していくと、結婚当初はかなり映画館にも通っていたような気もしてきました。
人の記憶は、ほんとうにいい加減です。


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2012/10/28

■節子への挽歌1882:思いつきのままの生き方

節子
最近、娘のユカから、私の思いつきのままの生き方を批判されています。
お父さんの思いつきに振り回されてお母さんは苦労しただろうなと言うのです。
まあ考えてみると、そんな気もします。
私の生き方は、かなり「思いつき」を大事にしているからです。

ユカからまた今日そう言われたのは、テレビで高尾山の紅葉がでてきたので、高尾山に行こうと誘ったからですが、外部からの情報にすぐ影響されてしまうのです。
食べ物もそうで、テレビでみるとつい娘に明日はこの食事にしてほしいと頼むわけです。
しかし、明日になるともうそれを忘れていますので、その頼みは無視してもらってもいいのですが、まじめな娘はそれを実現させてくれるのです。
ところがその時には、私の関心は次に移っていますので、さほど喜ばないというわけです。
実に困ったものなのです。
思い付きを、ついつい口に出してしまうことが問題なのですが、
しかし、それが私の性分だから仕方がありません。

節子は、しかし私のそうした性向を学んでいて、まあうまくかわしていましたから、そう苦労はしていなかったでしょう。
それに節子はそもそも忘れっぽかったので、私とはまあお似合いだったわけです。
しかし娘はたまったものではないでしょう。
親子と夫婦とでは、やはり対応は変わらざるを得ないですし。
最近はほどほどに扱われていますが、それでも私の「思いつき」の多さには辟易しているようです。
申し訳ないと、時々思いますが、まあ人の性格はそう簡単には直りません。

節子には、何も考えずに話せましたが、娘にはそうもいきません。
今日は、もう一人の娘のジュンからも私の気楽な発言を注意されました。
いやはや困ったものです。
娘たちは、節子よりも数段しっかりしていますので、歯が立ちません。

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2012/10/26

■節子への挽歌1881:オープンサロンまでの30分

節子
今日はオープンサロンです。
節子と一緒に始めたオープンサロンも、節子がいなくなってからは、だんだんとさびしくなってきました。
私があまりやる気がないという雰囲気が伝わっているのかもしれません。
それに声も掛けなくなったので、知っている人も少なくなったかもしれません。

節子がいなくなった後、いろんな人からぜひまた再開してといわれていたのに、そういう人に限って、なかなか顔を出しません。
もちろん悪気があるわけではなく、以前参加してくれていた若い人はますます忙しくなり、若くない人は会社を辞めたりしている人も多いからです。
節子がいた頃は、時に20人を超える参加者で部屋に入りきれなかったりしましたし、テレビの取材まであったこともありました。
しかし、いまは常連メンバー中心になってしまい、毎回、同じような話が繰り返されているような気もします。
そうなった一番の理由は、私の意識なのでしょう。
節子と一緒に始めたサロンなので、一人でホスト役をつとめるのは何かさびしいのです。
なかなか元気が出てこない。

節子とやっていた時は、みんなが集まりだす30分前には、節子が用意を終えていました。
当時は軽食や飲み物も用意されていました。
節子はいつも出社途中で買い物をし、大変そうでした。
早く準備ができ、私も時間がある時には、節子と2人で窓の外の夕日を見ながら、今日は誰が来るだろうかなどとよく話していました。
その時間は、いつもとても不思議な時間でした。
東京の夕闇は、そのときもとても寂しく哀しかったのですが、節子がいなくなってからはさらに寂しく哀しく感じます。

今日は、1時間も前から湯島に一人でいます。
用事が早く終わりすぎてしまったのですが、昔のように音楽を聴きながら、昔とは違って一人で珈琲を飲んでいます。
音楽は節子がいたときと同じ曲です。
おかしな言い方ですが、湯島のオフィスでは仕事する気にはなれないのです。

やることもないので、あの頃と何が変わっただろうかと部屋を見回しました、
節子が好きだったリソグラフの額がなくなっているほかは、何も変わっていません。
額は地震で落ちてしまい、ガラスが割れてしまったの、外しているのです。
節子がいたら、ガラスを入れ替えてもらうお願いをするのですが、怠惰な私は、まださぼっているのです。
節子が懸念したように、私には自活力が欠けているのです。

もう一つ違いに気づきました。
大きな珈琲メーカーが机の上にありました。
以前は来客に合わせて、節子が珈琲を淹れてくれましたが、いまは10人用の珈琲メーカーで一挙に淹れてしまうのです。
そういえば、日本茶は面倒なので点てなくなってしまいました。
だんだんこの湯島の空間も、味気なくなってきているのかもしれません。
それがオープンサロンの参加者が少なくなってきた理由かもしれません。

もうじき、最初の参加者が来る頃です。
さて味気ない10人用の珈琲メーカーで珈琲を淹れましょう。
誰が来てくれるでしょうか。
最近、珈琲が余ってしまうのですが、今日は余らないといいのですが。

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■原発の廃炉は可能なのか

昨日の技術カフェで、原発の廃炉が話題になりました。
原発の安全性が話題になりますが、私にとっては原発の運転の安全性は瑣末な問題だと思います。
これまでも何回か書いているように、原発はその存在そのものが危険なものなのです。

仮に北朝鮮が、あるいは日米同盟に反発を持つグループが、9.11のように、日本のどこかの原発に飛行機をぶつければ、日本はどうなるでしょうか。
つまり、日本はい自らの内部にたくさんの原爆をむき出しで用意しているようなものなのです。
そう考えると、日本はまさに自爆国家とさえ思えてしまいます。

昨日の技術カフェで参加者の一人から、そもそも「廃炉」は可能なのかと問われました。
たしかに、そう問われてみると答えられないことに気づきました。

2030年代までに原発ゼロなどというのは、原発推進と同義だと思いますが、もし廃炉ができないのであれば、そもそも脱原発そのものがあり得ない選択になりかねません。
そう考えたら、ゾッとしてきました。
脱原発とは、所詮は「脱原発運転」でしかないのです。
廃炉したところで、飛行機をぶつけられたら放射線を飛散させる原子炉も廃棄物も燃料も依然として残っているわけです。
それが安全に処理されてこその「廃炉」です。

これも前に書きましたが、以前、原子炉の設計者だった後藤政志さんに「安全な廃炉は可能なのですか」と質問したことがあります。
明確な回答はもらえませんでしたが、その時には私自身はそれができると何となく思っていました。
しかしきちんと考えれば、そう簡単なことではありません。
なぜ今まで気づかなかったのでしょうか。
まだどこかに科学技術への信仰が私の中にも残っているようです。
なんとお粗末な知性でしょうか。
これでは原子力技術者の知性を笑えませんね。
しかし、廃炉という希望さえも残っていないとしたら、パンドラの箱よりひどい話です。
これはいったい、誰が仕掛けた罠なのでしょうか。

しかし早合点はいけません。
どなたか「廃炉」について教えてくれませんか。
私も少し調べてみようと思いますが。

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■子どもとの付き合い方

今日、街中でとても学ぶべき光景に出会いました。
いずれも外国の方ですが、2組の親子に出会いました。
一方は乳母車に乗せた幼児連れの母親、もう一方は3歳くらいの男の子を連れた母親でした。
私のかなり先を親同士話し合いながら歩いていました。
ところが道にとまっていた自動車に、その男の子が興味を引いて見入ってしまいました。
母親たちはそれに気づいて立ち止まりました。
相変わらず母親同士の話をしながらですが。
そして、その男の子が、自動車に見とれている間、何も声をかけずに待っていました。
当然私は横を通り過ぎましたが、気になって後ろを振り返りながら歩調を緩めました。
少したって男の子は観察を終えて動き出しました。
それを待っていたかのように、母親たちもまた何もなかったように歩き出しました。
まあそれだけの話なのですが。

もし私だったらどうするかと思いました。
せっかちな私は、同行者の手前もあって、「どうしたの、早くおいで」とせかしそうです。
あるいは、子どもと一緒に、自動車の話をしそうです。
しかし、この母親たちは何もせずに、ただただ見守っていたのです。
念のために言えば、「待っている」という感じでもありませんでした。
まあよくある風景かもしれませんが、横を通り過ぎるときに、とてもあったかな空気を感じました。
しかも、実に自然なのです。
男の子はなにもなかったように、またとことこと歩き出しました。
そのリズムに合わせて、母親たちもまた話しながら歩き出したのです。

子どもと付き合うとはこういうことなのかもしれません。
とてもいろんなことに気づかせてもらったような気がします。

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2012/10/25

■節子への挽歌1880:真夜中に目覚めさせるのは節子かもしれません

節子
最近寝不足が続いています。
わが家の老犬チビ太のせいもあるのですが、それだけではありません。
なぜか真夜中に目が覚めてしまうのです。
目が覚めると、いろんなことを考え出してしまいます。
そうすると今抱えているいろんな心配事が襲ってきて、眠られなくなってしまいます。
そこでついつい枕もとのリモコンを使って、テレビをかけてしまうのです。
といっても、深夜ですので、見るべき番組があるわけでもありません。
無意味にテレビをかけながら、その音声を聞いていると何となく落ち着くのです。
しかしそれで眠れるわけでもありません。
そんなわけで、寝不足が続いています。

節子のことを思い出すこともあります。
今は涙は出ませんが、節子の名前を呼びたくなることはあります。

節子は、隣のベッドで私が本を読んでいるのが好きでした。
私が隣で本を読んでいると安心して眠れるといっていました。
病気になってからの話です。
安心して眠っている節子の隣で、本を読むのは、私も好きでした。

節子が病気になってから、私たちは一緒にいる時間が増えました。
再発してからは、いつも一緒でした。
いまから思えば、悔いが残りますが、その一緒の時間がずっと続くとなぜか思っていました。
現実をしっかりと見ることを、無意識に避けていたのでしょう。
その時間が長く続くはずがないことは、節子は知っていたかもしれません。
しかし、そんな会話は私が好まないことも節子は知っていました。
本を読んでいる私の横で、節子はもしかしたら、起きていたのかもしれません。
いまとなっては、もう確かめようもありません。

節子がいなくなってから、私たちの寝室はいつも扉が開け放たれています。
閉めたことはありません。
最初は、節子が戻ってくるかもしれないと思っていたからです。
遮光カーテンも少しだけ開けていますので、寝室はかなり明るいのです。
節子は少し明るい寝室が好きでした。

ところで、最近、私の見る夢が変わったような気がします。
おだやかな夢ばかりです。
節子が出てくるわけではありませんが、前にも書いたように、どこかに節子を感じさせる夢なのです。
節子が寝ている私を守ってくれているのかもしれません。
それに気づくように、時々、真夜中に私を目覚めさせるのかもしれません。
でも寝不足にさせてほしくはありません。
節子
今夜は起こさないでくれますか。
かなり寝不足がたまっていますので。

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■「働くこと」は「生きること」か

先日、あるビジネススクールで「ソーシャルビジネス」をテーマにした話をさせていただきました。
私のソーシャルビジネス観は、少し一般的ではないのですが、前にも何回か書いているように、マネタリーエコノミーの世界で発想している限り、ソーシャルビジネスとは言わないというのが私の考えです。
そもそも、ビジネスは本来的に「ソーシャル」なものであり、企業の事業とは社会性を持ったはずです。
にもかかわらず、最近、ビジネスに「ソーシャル」という形容詞がついているのは、ビジネスが「ソーシャル」ではなくなっているからでしょう。
ではそれは何かといえば、「マネタリービジネス」です。
まあそういう視点で、少しお話をさせてもらいました。

それを聞いてくれたみなさんからいろんなご意見をいただきましたが、すぐにメールで届いた意見のなかに「働くこと=生きること」に言及した人が2人いました。
そこに反応してもらえたことがとてもうれしかったので、引用させてもらいます。

お一人は有名大企業に勤める40代の、MBAもお持ちの男性です、

本日のお話で最も衝撃的だったのは、マネタイズのないところにビジネスの価値がある、働くこと=生きること、という考え方です。
この方は、最近ちょっとマネタイズに疲れつつあり、マネタリーにこだわらない生き方を模索中と書かれています。

私が大切にしている生き方は、一人称で生きるということです。
これも何回もこのブログやホームページで書いてきました。
講義では、ライフワークバランスという発想も否定しました。
ライフにとってワークはとても大事な要素であると私は考えているからです。
次元の違うものをバランスさせようというのは、私には理解できない発想なのです。
一人称で考えると、当然のことですが、「働くこと=生きること」になるはずです。
組織や社会のために生きるのではなく、自らを誠実に生きることが社会を構成している市民の義務だろうと思うわけです。
ちょっと飛躍がありますが、明日からもう少し書き込んでいくつもりです。

もう一人は、専門職の30代の女性です。

私の育った環境のせいか、お金に対する嫌悪感と共にどうやってもお金が問題解決にはどうしても必要なんだというイメージから抜け出せずにいます。
と、同時に今は恵まれた職場にいますがどうも満たされない思いを抱えています。これは、生きることについて素直に向きあっていないせいかもしれません。
仕事=生きること。その通りだと思います。
この方は、すでにノンマネタリーな仕事にも取り組みだしているようですが、こう続けています。
今回の授業でのお話は半信半疑ながら心に響くものがありました。
半信半疑という表現がとてもうれしいです。
おそらくそれが多くの人の感想だったはずですし、似たようなコメントも数名からもらっています。
半信半疑というのは、まさに一人称の判断です、

「働くこと=生きること」。
これについて、少し何回か書いてみたいと思います。
今日はとりあえず、その予告編でした。

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2012/10/24

■節子への挽歌1879:魚沼の新米

節子
毎年、この季節になるといろんな人が新米を送ってきてくれます。
感謝しなければいけません。
今日は新潟の金田さんから魚沼の新米が届きました。
早速、電話をしたら、まずは節子さんに供えてくださいといわれました。
ますますうれしい話です。
明日にでも供えさせてもらいましょう。

金田さんは節子のことをよく知ってくれています。
会う度に節子の名前が出ます。
金田さんは、私よりも年長で、しかもそう体調が良いわけではありません。
しかし東京にもよく出かけてきますし、精力的にさまざまな活動に取り組んでいます。
節子がいたら、たぶん私もそうしているだろうなと思うことがあります。
伴侶の支えの有無が、行動力に大きく影響するような気がするのです。

節子が元気な時には、いつでも共有の時間が取れると思い、それを疎かにしていたことは否定できません。
いなくなって、初めてそれに気づいても、もう遅いのです。
おそらく多くの人が、こうした間違いをおかしていることでしょう。
教えてやりたい気がしますが、たぶんこれは体験してみないとわからないのです。

金田さんも、この数年、奥様の体調があまりよくないようです。
以前はバレーボールをやったりしていた、とても元気な方でしたが、金田さんのお話ではあまりご無理はできないようです。
それで、金田さんに会う度に、活動もほどほどにして、できるだけ在宅するのがいいとお話しするのですが、相変わらずいろんな活動をされていて、その報告やら相談の電話があるのです。
人の性格は、なかなかなおらないのがよくわかります。

節子と一緒に、新潟に伺えなかったのが、とても残念です。
伴侶がいなくなると、行動が広がる人と狭まる人がいますが、私は間違いなく後者です。
節子の霊が肩に覆いかぶさったのではないかと思うほど、最近はフットワークが悪くなってしまっています。
今月も大阪に用事があるのですが、どんどん日程を遅らせてしまっています。
実に困ったものです。

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2012/10/23

■節子への挽歌1878:年寄りの冷や水

節子
節子がいなくなってから、つながりができた人も少なくありませんが、その一人の神崎さんから電話がありました。
先日、相談があったことの結果報告です。
相談した以上、結果報告をしておかないと思って、と、まあ私には全く興味のない報告をしてくれました。

神崎さんはとても律儀なのです。
というのも、神崎さんは長年、任侠の世界にいた人なのです。
神崎さんとの出会いも、まんざら節子と無関係でもないのですが、まあそれはそれとして、節子がいなくなってから出会った人の一人です。
裏表がない直情径行の人であり、素直に付き合える人です。
神崎さんも、私には多分心を開いてくれています。
どこか、実に共通しているところがあるのです。
まあ一言で言えば、お互いに「バカ」なのかもしれません。

神崎さんは、自分の報告が終わった後、「いまは何をやってんや」と訊いてきました。
最近の私の状況の一部を少し話しました。
そしてちょっと疲れているんだと話したら、「年寄りの冷や水」になるぞと言われてしまいました。
その上、「いい歳をして娘たちに心配をかけるな」と諭されてしまいました。
神崎さんは、わが家にも2回ほど来ていて、娘たちのことも知っているのです。
「いい歳、いい歳とうるさいね」と言うと、わしくらいしか本音で佐藤さんに注意してくれる人はいないだろう、と言われてしまいました。
まあ、一応、神崎さんには、「そんなことはない。みんなから言われているよ」と答えたのですが、考えてみると、たしかに「いい歳をして」と、私をたしなめた人はいません。
むしろ「高齢なのにがんばっている」と言われて、ちょっといい気になってしまっているのかもしれません
そもそも自分でも「いい歳」などと思ってはいないのです。
実に困ったものです。

もし節子がいたら、最近の生き方は、「いい歳をして」となだめられかもしれません。
いろんなことに取り組みすぎですね。
それに最近はとんでもない重荷まで背負ってしまい、心やすまることもありません。
疲れやすくなっているのは、「いい歳」の自覚がなかったからかもしれません。
まあたまには神崎さんのアドバイスも聞かなければいけません。
そして、少し生活を見直そうかとも思います。
神崎さんは、毎日、お気に入りの喫茶店で珈琲とケーキを堪能しているのです。
それくらいの余裕を持たねばいけません。
また一度、神崎さんに珈琲をご馳走になりに行きましょう。
そして、「神崎さんもいい歳をしてまだそんなことやってるの」とバカにしてやらないといけません。

それにしても、まさか節子亡き後に、神崎さんのような人から注意されるとは思ってもいませんでした。
いやはや実に困ったものです。

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■節子への挽歌1877:「私だけの神」

節子
毎日挽歌を書くことが守れないでいます。
節子を見送ってから3年間は、少なくともこんなことはなかったと思います。
それが最近は、ちょっとばたばたしてしまうと挽歌を書けずに、まあ今日はいいかと寝てしまうわけです。
まあ「気持ち的には無理をしない」という私の信条を、節子はよく知っていますから、節子はなんとも思わないでしょうが、私的にはちょっとは気になっています。

時間があるとかないとかは、ほとんど関係はありません。
時間がない時ほど、節子に語りかけたくなります。
時間がある時には、逆になんとなく節子と一緒にいる気がして、挽歌はさぼってしまうのです。
節子は実に不思議な存在です。

先日、エティ・ヒレスムのことを書きました。
エティには、彼女だけの神様がいました。
それをベックは「私だけの神」と呼びました。
絶望的な状況にあってもなお、エティが元気だったのは、事業武運小美玉市神様がいたからです。
最近、ソローの市民的不服従を読み直しました。
そこに底流している考えも同じように感じました。
自らをしっかり生き抜くには、自分の神様が必要なのかもしれません。
最近そのことを強く実感するようになりました。
節子との対話は、私のひとつの拠り所になっているのかもしれません。

今日は、あとできちんとした挽歌を書こうと思います。

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■信濃川への鮭の遡上が増えています

私も関わらせてもらっているNPO新潟水辺の会の事務局の加藤さんから、信濃川への鮭の遡上が今年は増えているとメールが来ました。
JR東日本が改善してくれた宮中取水ダム魚道では21日現在でもう123尾の遡上が確認されているそうです。加藤さんは戦後最多の鮭の遡上も夢ではないと言っています。

信濃川に鮭を遡上させるプロジェクトは、長年、新潟水辺の会が取り組んできていますが、私は企業との接点をつくることにささやかに協力させてもらっています。
信濃川にはJR東日本と東京電力が、水力発電のためのダムをもっているのですが、そこで水の流れが途絶えたり、魚道が不整備だったりしていたのです。
たまたま両社には、私が経営道フォーラムで知り合った方がいるので、その人たちを通して、NPOと企業との「カジュアルな」関係を育ててきました。

JR東日本との関係は今ではかなり深いものになり、さまざまな面での協力関係が育っています。
改善された魚道の写真を載せますが、私が2年前に見に行った時に比べると大きく改善されています。
それが鮭の遡上の増加につなげっているわけです。

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ところが鮭がそこからさらに上に行くためには、まだ課題が残っています。
その上流には東京電力のダムがいくつかあります。
実は、東京電力との関係も育ちだし、ダムからの放出水量も増やしてもらい、魚道の改善の話も進んでいました。
昨年春には鮭の稚魚の放流も一緒にやろうというところまでになっていました。
ところがその1週間前に、3.11の大地震が起こり、それどころではなくなってしまったのです。
震災後も、東京電力の関係者とのミーティングももちましたが、いまや同社は自由には動けない会社になってしまいましたので、関係者は協力的ですが、実際の活動は難しくなっています。
とても残念です。

しかし、少しずつですが、鮭の遡上は増えてきています。
東京電力も信濃川の水量や鮭の遡上には気遣いだしてくれていると思います。

北海道大学の帰山雅秀先生によれば、今年も海水温が高く、鮭の遡上が遅れ、あるいは回遊出来ずに減耗している個体も多いそうです。
私は、単純な地球温暖化論には与しませんが、こうした気候異常はさまざまなところで起こっています。
そういうことも含めて、私たちの生き方そのものを問い直す契機として、日本最長の川である信濃川への鮭の遡上を支援するプロジェクトには象徴的な意味を感じています。
しかもその上流には、東電が管理している尾瀬があります。
今回の原発事故の関係で、尾瀬もまた維持できるかどうかが問題になっていますが、いまこそ尾瀬の意味を問い直す時期にあり、第2の尾瀬プロジェクトにならないかというのが、私が信濃川への鮭遡上プロジェクトに関わらせてもらった動機なのです。

そのプロジェクトを発展させていくためには、全国的な支援体制が必要ではないかと思います。
原発反対のプロジェクトも大事ですが、信濃川への鮭遡上プロジェクトのような形での運動も必要です。
原発の問題は、私たち一人ひとりの生き方や価値観に根ざした問題です。
たしかに原発を推進しているのは政財界やアメリカ資本でしょうが、それを支えていたのは、私たちの生き方なのです。
それを問い質さずして、ただ反対していいのか。
イラク派兵には何のわだかまりもなくデモに行けましたが、原発反対のデモに行くのはどこかにわだかまりがあって、大きな声を出せずにいます。
みなさんはどうお考えでしょうか。

信濃川に鮭を遡上させるプロジェクトは、実に象徴的なプロジェクトなので、多くの人たちに知ってもらい、応援してほしいと思います。
関心のある人はぜひご連絡下さい。

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2012/10/21

■節子への挽歌1876:最後の1枚を燃やしてしまう勇気

節子
今日も写真の話です。
私がもう10回以上見た映画「ボーン・アイデンティティ」シリーズがあります。
その第2作目で、隠棲していた主人公のジェイソン・ボーンは愛する伴侶を殺害されます。
そしてまた「闘いの生活」へと戻っていくのですが、その時に愛する人との思い出の品々を燃やします。写真も、です。
しかし1枚だけ燃やさずに残すのです。
ところが、その1枚の写真も最後に燃やしてしまいます。

まあなんでもないシーンなのですが、私は最初観た時からこの最後のシーンが気になって仕方ありません。
なぜ写真を残し、なぜ燃やしたのか。
この映画の監督は、ディテールのとてもこだわっています。
ですから必ず深い意味があるのです。
いくらでも意味は見つけられますが、私の関心は、自分ならどうするか、です。
最後の1枚を燃やしてしまう勇気があるかどうか。

いまはまだ、最初の1枚も燃やせないでいます。
もちろん写真だけではありません。
私にとっては大きな意味を持っていても、私以外の人、たとえ娘たちであろうと、何の意味もない節子の遺品がまだたくさんあります。
節子の引き出しや書類棚などは、まだ5年前のままです。
再発を知ってしばらくして、節子は身辺整理をしたいといいました。
私は、それだけはやめてほしいと頼みました。
いまから思えば、間違った判断だったかもしれません。
節子は遺影の写真も選びたいといいました。
それも止めてもらいましたが、節子はいつの間にか何枚かの写真を選んでいました。
それもとても後悔しています。
もっと一緒になって、探せばよかった。そんな気もします。

節子が選んだ写真は、必ずしも私の好みではありません。
でもいまは、その写真が、「1枚の写真」になりかねません。
それは節子一人の写真です。
葬儀の写真に使われたのですが、いま考えると、私と一緒にとった写真にすべきでした。
葬儀の遺影だから本人だけの写真でなければいけないと思い込みがちですが、私と2人の写真を使うべきでした。
節子の葬儀は、私の葬儀でもあったのですから。
しかし、それに気づいたのはつい最近です。
私の葬儀には、節子と一緒の写真を使ってもらおうと思います。

ところで、私はまだしばらくは節子の写真を燃やせないような気がします。
その自信がまだないのです。
節子のすべてを心身に取り込んだ自信が。

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■野田首相の約束は財務官僚との約束

日本の政治はいまやほぼ関税に財務官僚に掌握されたような気がします。
テレビで、安住財務省がいまなお「野田首相は約束を守る人だ」と言っていましたが、野田首相が大事にしているのは「財務官僚との約束」なのでしょう。
谷垣さんとの約束でも、国民との約束でもないのです。
今朝のTBSの時事放談の藤井さんの発言もまさに財務官僚の約束を実現させるために野田首相に働きかけていることが感じられます。
彼もまたお金にじゅばくされてしまっているのでしょう。
違憲状態では解散はできないという自己否定の発言にさえ気づいていないのですから。
野田・藤井・安住。すべて財務省の洗脳を受けた人たちです。
そのことを踏まえて現在の政治状況を考えると、実にさまざまなものが見えてきます。

最近、話題になった孫崎さんの「戦後史の正体」は、対米追従という軸で戦後史をみることで問題を整理してくれていますが、どの軸で見るかはとても大切です。
軸がなければ、あるいは自らの視点がしっかりしていなければ、状況は見えてきません。

人はそれぞれに視点も視野も、価値観も違います。
同じものを見ても、全く違ってきます。
ジョン・バージャーは書いています。
「コカ・コーラはアメリカ人にとっては郷愁であり、ロシア人や中国人にとっては憧れであり、イスラム原理主義者にとっては悪魔のシンボルである」と。
まったくその通りでしょう。
アメリカのオバマ政権や日本の財界や財務官僚にとっては、野田政権は信頼できる政府でしょうし、小沢・鳩山ラインは悪夢の政府だったでしょう。
とても残念なのは、国民の多くが、お金まみれの状況の中で軸が見えなくなっていたことです。
もし真実をしっかりと見たいのであれば、お金まみれの生活から抜け出なければいけません。
財政危機論に騙されてはいけません。
財政が破綻して、困るのは誰か。
しっかりと生きている人には困ることなどないでしょう。
困るのはお金まみれの人たちです。
日本には豊かな自然があります。
広い国土にはまだまだ食料を生み出してくれる大地はたくさんあることを忘れてはいけません。

小沢さんたちの「生活」が何を意味しているのか、まだよくわかりませんが、生活を基軸にした経済生活に戻りたいものです。
イバン・イリイチは「幸福は、共に働き、互いをケアするなかに存在する」と言っています。

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2012/10/20

■節子への挽歌1875:写真は忘れ去るための記録

節子
美術評論家のジョン・バージャーの「見るということ」というエッセイ集を読んでいたら、スーザン・ソンタグの写真論に関するエッセイがありました。
ソンタグの写真論もバージャーの写真論もとても興味深いものがあります。
しかし、読んでいるうちに、机の前においてある節子の写真がとても気になりだしました。
節子がいた時といなくなってからとでは、私の写真との関係は一変しました。

昔は私も写真が大好きでした。
学生の頃は、自宅で現像までしていた時もあります。
どこにいくにも小さなカメラ(オリンパスペン)を携行し、撮っていました。
ですから家族の写真も、節子の写真もたくさんあります。

バージャーは、写真は忘れ去るための記録だと言います。
もう少しきちんとした文脈で引用しないといけませんが、まあ挽歌だから許してください。
最近の私には実にぴったり来る説明です。
バージャーはこう言うのです。

光景は一瞬の期待を永遠の現在に変える。記憶の必然性や魅力は失われる。記憶がなくなると、意味や判断の連続性もまた失われてしまう。カメラは記憶の重荷から私たちを解放するのである。

写真を撮影した時の「必然性や魅力」は、おそらく写真からは再現できないのです。
しかし、もしそこに写真を撮った時の人(たち)がいれば、その時の「現実」が再現されます。
つまり、忘れられた記憶を引き出すことができるのです。
言い換えれば、写真は撮影者と被写者とが一緒になって体験を再現するメディアです。
節子がいなくなってから、私は残された膨大なアルバムをほとんど見たことがありません。
その理由は明らかです。
一人で見ることによって、記憶が変質しかねないからです。

節子がいなくなってから、写真そのものを撮ることもなくなりました。
撮るとしても、人のいない風景や生物です。
そもそも以前は常に携行していたカメラを持ち歩かなくなりました。
なぜ写真を撮らなくなったのか。
答えは簡単です。
忘れ去るべき体験もなくなり、忘れ去る必要もなくなったからです。
節子がいなくなってからの時間は、内容のない時間になってしまっています。
私には、写真はいらなくなりました。

パソコンの前にある1枚の節子の写真は、私の心をなごませます。
しかしアルバムの膨大な写真は、私の心をなごませることはないでしょう。
たくさんのアルバムを見る気になる時が来るでしょうか。
来るかもしれないし、来ないかもしれない。
節子と過ごした時間は、思い出したくもあり、思い出したくもない。
自分ながらに、まだうまく整理できないでいます。

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■野田首相が詐欺師でなければ、誰が詐欺師なのか

昨日の三党党首会談は思った通り決裂しました。
そもそも最初から成り立つ話ではありません。
なぜいまだもって自民党も公明党も同じ過ちを繰り返すのでしょうか。
野田首相とはきちんとした話し合いなど出来るはずがありません。
彼の言葉には信がないからです。
ただ詭弁を弄する詐欺師とさえ、私は言いたい気がします。
しかし、みんな、あの「独特の話し方」に騙されてしまう。
長年、ただひたすら駅立ちをしてきた成果かもしれません。
ちなみに、私は政治家の駅立ちほど馬鹿げた行為はないと思っています。

首相を詐欺師呼ばわりするとは何事だと言われるかもしれません。
しかし、民主党が政権をとった2009年の総選挙の時に、堺市で野田首相が街頭演説した話を読んでみてください。
詐欺師よばわりしたくなる理由がわかると思います。
たかが1000万円を得た森口さんなどかわいいものです。
しかし、マスコミは森口さんはいじめても、野田首相には寛大です。
不思議です。

「マニフェスト、イギリスで始まりました。ルールがあるんです。書いてあることは命懸けで実行する。書いてないことはやらないんです。それがルールです。書いてないことを平気でやる。これっておかしいと思いませんか。書いてあったことは4年間何もやらないで、書いてないことは平気でやる。それはマニフェストを語る資格はないというふうに、ぜひ皆さん、思っていただきたいと思います。
  その一丁目一番地、税金の無駄遣いは許さないということです。天下りを許さない。わたりを許さない。それを徴底していきたいと思います。消費税1%分は2兆5000億円です。12兆6000億円ということは、消費税5%ということです。消費税5%分の皆さんの税金に天下り法人がぶら下がっている。シロアリがたかっているんです。それなのにシロアリを退治しないで、今度は消費税引き上げるんですか。消費税の税収が20兆円になるなら、またシロアリがたかるかもしれません。鳩山さんが4年間消費税を引き上げないと言ったのは、そこなんです。シロアリを退治して、天下り法人をなくして、天下りをなくす。そこから始瀬なければ、消費税を引き上げを話はおかしいんです。徹底して税金の無駄遣いをなくしていく。それが民主党の考え方であります。

いかがでしょうか。
You tube でも公開されています。
http://www.youtube.com/watch?v=THkY0BZqwjE&feature=related
言葉に真実のない人の言葉に振りまわれてはいけません。
誰か、蹴りをいれてほしいですが、それができないのであれば、詐欺師を首相に選んだことをただただ嘆くしかありません。

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2012/10/19

■節子への挽歌1874:荷物が重くてふらふらです

昨日とは打って変わっての穏やかな日和です。
今日も湯島に来ています。

最近、次から次へと「気の重くなること」が連発しています。
お祓いをしたいほどです。
それでなくとも、最近はいささか気弱になっているのですが、かなり心身にこたえます。
一番の辛さは、その気持ちを吐き出すところがないことです。
まあこのブログを書くことぐらいが、最近の気分転換の場でしょうか。
そう思うと、いささか惨めな気分にもなります。

節子がいなくなってから、どこかで他者を拒絶するようなところがあります。
意識的にも行動的にもむしろ逆なのですが、時々、他者を拒絶している自分に気づくのです。
他者とのつながりを拒絶しながら、しかし他者とのつながりを広げ深めていく。
この「意識と無意識のずれ」は、自分ではどうしようもありません。
昔はこんなことはなかったように思いますが、ある意味でのアイデンティティ・クライシスです。

二重人格とか心の多重構造などの話には私も学ばせてもらってはいますが、自らの中にあるさまざまな自分を統合するのが、最近は難しくなってきました。
以前は、むしろそれを楽しんでいました。
いまは楽しむ余裕はなくなってきているのかもしれません。
あるいは、以前はそうした矛盾も「節子」という他者の存在で相対化され、統合されていたのかもしれません。
いまはそれがなくなりました。

長年、伴侶と支え合いながら生きてくると、一人になるとなかなかまっすぐに歩けません。
最近はどうも生きづらい毎日を生きています。
なかなか自立できません。
節子が心配したとおりになっているようです。
困ったものですが。

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■「よき市民であるためには、悪しき《市民政府》に抵抗せよ」

昨今の政府の動きには強い怒りを感じます。
にもかかわらずなにもしない自分に、さらに怒りを感じます。
思い出して、ソローの「市民的不服従」を読み直しました。
1849年に発表された時のタイトルは「市民政府への抵抗」(Resistance to Civil Government)だったそうですが、そのほうがソローの真意は伝わってきます。
「市民政府」と言う言葉が、マジックワードなのです。

今回は、最近、新訳された「ソローの市民的不服従」を読んだのですが、訳者の佐藤雅彦さんがあとがきでこう書いています。

ソローが160年前に、帝国主義戦争にのめり込み建国の大義を忘れつつあったアメリカ合衆国で発した「市民的不服従」のメッセージ、「よき市民であるためには、悪しき《市民政府》に抵抗せよ」という呼びかけは、いま現在の日本にもズバリと通用する。
ソローは、ウォールデン岸での2年間の「森の生活」を本にして出版していますが、うらやましいほどに、誠実な生涯を生きた人です。
彼は、「世に言う“資産”が増えれば増えるほど、“人間らしい暮らし”を営む機会が減る」とも書いています。

それにしても、ソローの言っていることは私には実に共感できます。
いくつかのメッセージを引用させてもらいます。
ちょっと長いものばかりですが。

この国の自由を守っているのは政府ではありませんよ。西部開拓を行なつているのも政府じゃないですしね。教育だって政府が行なっているわけではない。それらはすべて、アメリカ人民の国民性の賜物なのです。いやいや政府が邪魔することもあるけれども、そういう余計なことをしなければもっと多くのことが国民のカによってやり遂げられていたでしょぅ。だって政府なんてものは、そもそも世の人々がたがいに邪魔だてせずに生きていくために、当座しのぎで設けている方便にすぎないわけですから。

私たちはなによりも先ず「人間」として生きるべきなのですよ。「臣民」として何かに仕えるのは、そこから先のことでしょ。正義を大切にする心をなおざりにして、法律ばかりに敬意を払う心を育むなんてのは、望ましいことじゃないですよ。

私が当然の権利として引き受ける「義務」はただ一つしかありません。つまりいつ何どきであれ、自分が正しいと思ったことを行なうという「義務」のことです。

団体に「良心」が付け加えられることはあるでしょう。但しそれは個々の人々が良心を持っている場合に、そうした人々が作った団体に限られるわけですけどね。

大勢の人間が、もっぱら「人間」としてではなく、ただの「機械」として、自分の肉体を差し出して「おかみ」(state)に仕えているわけです。


そろそろ私たちも、政府を権威ある「おかみ」と思うのをやめたいものです。
首相などは前にも書いたように、学期ごとに代わる学級委員長のような存在ですし、政府が何かを出来るなどと言うのはまさに共同幻想でしかありません。
ソローはもっと手厳しいです。
政府なんてものは、どんなに好意的に見ても、しよせんは当座しのぎの方便です。
読み直してみて、改めて多くの人に「ソローの市民的不服従」を読んでほしいと思いました。

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2012/10/18

■節子への挽歌1873:和室離れへの挑戦

節子
急に寒くなりました。
コタツが欲しいほどです。
節子がいたら、コタツを出してもらっていたような気がします。
しかし、今年はコタツなしでがんばってみようと思います。
というのは、コタツは和室に立てるわけですが、和室でコタツに入ってしまうと、もう節子の世界に引き込まれてしまうからです。
和室にはまだ、節子の記憶が満ち満ちています。
別にものがあるわけではありません。
名残があるのです。

たとえば縁側の障子の上の天窓のガラスに枯葉が貼り付けてあります。
これは節子が貼ったものです。
和室に寝ていた節子の往診に来てくれた看護士さんがとても気に入ったようで、医師の先生に、指差して注意を喚起していたのを今でも思い出します。
そういうちょっとした工夫が、節子の好みだったのです。
私の好みでもありました。

和室の床の間には節子の書をかかっています。
本来は季節ごとに変えるのですが、節子がいなくなってからは、誰も変えようとしません。
かかっているのは、「一日の旅おもしろや萩の原」
ちょうど今の季節には合っています。

その書の下には、節子の遺影写真がそのまま残っています。
もっとおしゃれな額に入れ替えようと時々思うのですが、なぜかまだその気になれません。
人の気持ちはなかなか思うようにはいきません。
たとえ自分であっても、です。

節子はカレンダーが好きな人でした。
すべての部屋にカレンダーをかけていましたが、今もその名残で、和室にもカレンダーがかかっています。
しかしだれもめくらないので、いつも数か月前のカレンダーになっています。
来年はカレンダーもやめましょう。
節子がいなくなってから、カレンダーは家の中からかなりなくなってしまいました。
私にはもうカレンダーはいらないのです。

和室の縁側のまん前が池です。
本来は今頃、縁側で池を見ながら何もない老後をすごしているのが私の理想でした。
その夢は完全に消え果てました。

和室離れができるかどうか、いささかの不安はあります。

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■居座りの時代

最高裁が参院選での1票の格差を「違憲状態」と認める判決を下しました。
これで、なんとわが国の立法府である国会は衆参いずれも今「違憲状態」とされたわけです。
司法が「違憲」と認めたことを立法府や行政府が、無視することはめずらしいことではありません。
これに関しては、このブログでも何回か書きました。
たとえば、「空自イラク派遣は憲法9条に違反」という判決もありましたが、無視されました。しかし、考えてみると、国の基本事項を決める役割にある国会議員が違憲状態にある方法で選ばれているというのはおかしな話です。
要するに正当な代表とは言えないということですから。
5倍の格差はおかしいですが、なぜそれが簡単に変えられないかというほうが私にはもっとおかしく思います。
変えるのは極めて簡単だと思うのですが、変えようと思っている人がいないということでしょう。
私自身、おかしいとは思うものの、自らが変えるための努力をしようという気はおきません。
だから大きなことは言えませんが、当事者である国会議員はどう思っているのでしょうか。
国民に支持されなくなっても政権は維持できることもおかしいですが、まさに日本の政治体制がおかしくなっているのだろうと思います。

そこにあるのは「居座り」です。
一度獲得した利権の席には、ともかく長く居座りたいとみんな思うのでしょう。
そして当事者でない人たちは、おかしいと思いながら、自らの居座りのために(つまり生活を守るために)実際には動きません。
みんな忙しくて、ほかの事にまで時間をさけないのです。
さびしい時代になってしまいました。
それによって何が失われるかを考えなければいけません。

最近、次々と遺体がでてくるおぞましい事件がテレビで報道されています。
私は殺人事件などには全くと言っていいほど興味を持てない人間ですので、事件のことはあまり知りませんが、ここでも「居座り」を感じます。
この事件と野田政権が、私にはどうしてもだぶって見えてきます。
さらにいえば、私たち自身の日常生活においても、私たちは居座りの思考に陥りやすいのです。
しかし居座りから得られるものは、瑣末な利益でしかありません。
仮に100億円のお金が得られても瑣末であることにはかわりはありません。

私は居座らない生き方をしたいと思っていますし、これまでそうしてきたつもりです。
しかし居座りの誘惑は大きいのです。
心しなければいけません。

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2012/10/17

■人間が機械化しだしているようで不気味です

美術評論家のジョン・バージャーは「20世紀の企業資本主義によって人間と自然を繋いでいた伝統はすべて壊されてしまった」と著書『見るということ』で書いています。
彼はまた、「そこかしこで動物が消えていく。動物園では動物が自らの滅亡の生きた記念碑となっている」と書いています。
まだ自然とささやかに繋がりを持ち、動物にも出会えている私としては、いささか言い過ぎではなかろうかと思いますが、大きな流れとしては、そうなのかもしれません。
もっとも、彼がいう「消えていく」というのは、実際に絶滅するという意味ももちろん含まれるでしょうが、人間が住む世界から周縁に追いやられてしまうという意味です。
彼はさらに恐ろしいことを書いています。
「今日動物に続いて周縁化が著しいのは、中・小作農階級である。彼らは、長い歴史にわたり動物と親しみ、それによって得た知識を維持してきた唯一の人々である」というのです。
これは、人間と動物(自然)とをつないできた存在がいなくなることを意味するのではなく、人間が動物(自然)から孤立しつつあるということでしょう。
デカルトから始まった近代の思想は、動物を機械と考えたわけですが、今や人間も機械化しはじたという話です。

そう言われて考えてみると、私たちは、もうかなりの程度、機械になってきてしまっているのかもしれません。
機械と言うよりも機械部品と言ったほうが正確かもしれません。
機械と言っても、全体ではなく部分でしかないのです。
自嘲的過ぎる気もしますが、機械になってなぜ悪いのかと言われると答えられません。
私は機械の部品ではなく自分の意思で主体的に生きたいと思っていますが。そんな思いは独りよがりの発想で、そもそもそんな生き方はもはや許されないのかもしれません。

何かわけのわからないことを書いてしまいましたが、最近のニュースを見ていると、心底、そんな気分になってしまいます。
それに最近、テレビで話している人が、どうしても「人間」に見えないのです。
もしかしたら、あれはみんな機械仕掛けの人形かもしれないと感じることもあります。
なかには私の知人もいますが、彼らも改造されてしまったのかもしれません。
そんな不気味さを最近よく感じます。

いまの社会は、どうも「生気」(いのち)を感じません。
みなさんはいかがですか。
私だけがおかしいのでしょうか。
機械の部品になってしまうと誰かの都合で廃棄されてしまうこともありますが、ややこしい「生気」(いのち)などないほうが、逆に部品としては重宝されるのかもしれませんね。
生きづらい時代になってきました。

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■節子への挽歌1872:母の腕のなかで息をひきとりました

節子
実はずっと約束を果たせなかったことを悔いていることがあります。
思い出しただけで、涙が出てきてしまうのですが、思い切って書くことにします。
その約束とは、どちらが先でも、最後は相手の胸に抱かれていよう、ということです。

お名前を出して怒られるかもしれませんが、知人からメールが来ました。

父が95歳で他界しました。
最後は、病院に入院することもなく、自宅で、母の腕のなかで息をひきとりました。
「父」というのは小宮山量平さんです。
私はお会いしたことはないのですが、お会いしたかった方です。
亡くなった後、NHKの「こころの時代」で、前に放映された小宮山量平さんの番組を再放送されていましたが、改めてそれを観て、お会いしなかったことをとても残念に思いました。
ご存知の方もいると思いますが、編集者として作家として最後の最後までご自分をしっかりと生きた方です。
90歳を過ぎてから長編小説を書き出したというのが、私が最初に興味を持った理由です。
灰谷健次郎さんを世に出した人としても有名です。

数年前に知り合った方が、小宮山さんの娘さんでした。
彼女から小宮山量平さんのことをお聞きして、これはとんでもない人だと思い、少し調べてみたのです。世の中には、すごい人もいるものです。
その小宮山量平さんが今年の4月に亡くなられたのです。
95歳だったそうです。
そして、最後は妻の腕の中だったというのです。
ネットで知ったのですが、最後の言葉は、「ありがとう、ありがとう。おもしろかったね」だったそうです。
私もそう言いたかった言葉です。

小宮山量平さんは、葬儀はするな、戒名もいらないという遺言を書いていたそうです。
もちろん訃報が新聞などに出てしまったために、そうもいかず、大勢の方がお別れに来てくれたそうですが。

小宮山量平さんももちろんですが、奥様も幸せだったことでしょう。
私は約束を守らずに、節子はベッドの中で、家族みんなに手を握られながら、最後を迎えました。
それが良かったかどうかはわかりません。
ただその時は、約束のことなど思い出しようもありませんでした。
節子が逝ってしまってからの数時間、いや数日は、夢遊病者のように、ただただ流されていたのです。

それにしてもなぜ抱いてやらなかったのか。
悔やまれて仕方がありません。
だから涙が出てしまうのです。

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2012/10/16

■森口尚史さんが憎めないのですが

「iPS誤報問題」で森口尚史さんが連日テレビでたたかれています。
「肩書き」の多くは虚偽だったようですし、臨床事例の話もほとんどが嘘だったようです。
読売新聞の「スクープ」から始まったこの事件は、いったい何だったのか、理解し難いところがあります。
ただ連日テレビを見ながら、どうもこの森口さんが憎めません。
娘に、この人はきっと良い人だよと言ったら、嘘をついているんだよと言われましたが、どことなく私には憎めないところがあります。
彼の関わったプロジェクトへの助成金や補助金の洗い直しの話まで出てきています。
これから森口さんは大変ですね。
おそらく「いじめの対象」になるでしょう。
いじめ問題に偉そうなことを言っている人ほど、いじめが好きですから。
新聞社の対応にとても興味があります。

もっとも、この事件によって、行政による、形だけ整えば実効性がなくても何のお咎めも無い助成金や補助金の実体が見直されるのは、悪いことではありません。
そういう形で、どれほどの税金が無駄遣いされていることでしょうか。

被災地の復興予算が、さまざまな形で使われていることも問題になっています。
政府の閣僚が、テレビでおかしいと発言しているのを見ると、それこそおかしいのではないかと思いますが、自分たちがそれをやっているという認識がありません。
おかしいと気づいたら、すぐに予算執行をストップすればいいだけの話で、テレビで首をかしげているような暇があるのであれば、きちんと仕事をしろと言いたいです。
これからきちんと精査するなどと言うのも、おかしな話です。
その前に、反省し謝罪しろと言いたいです。
会社なら横領罪でしょう。
全く政治家は気楽な仕事になってしまいました。

復興予算横流しの件も、テレビで誰かが話題にしたからみんな調べるようになってきたわけですが、こんなものはおそらく山のようにあるのでしょう。
パーキンソンの法則ではありませんが、官僚の数だけ仕事は生まれるのです。
それをマネジメントする人がいなければ、予算使途はどんどん増えていくのです。
実体につながっていないところほど広がりやすい、というのは、パーキンソンの法則にはありませんが、間違いない法則です。

森口さんの話と復興予算の話は、奇妙につながっています。
森口さんを裁くのであれば、復興予算を復興とは別のところに使ってしまった官僚や政治家も厳しく罰して欲しいものです。
森口さんが使ったお金は微々たるものです。
しかし、われわれ生活者は微々たるお金ほど理解できるので、復興予算を何百億も横流しした人よりも、数百万円を横領した人のほうを責めがちです。
まあそこが、私たち貧乏人の悲しき習性です。
そのために、小沢さんは首相になれなかったわけですが、私たちのそうした貧しい根性を恥じなければいけません。

森口さんがいじめられなければいいのですが。

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■節子への挽歌1871:畑に草抜きに行きましょうか

節子
秋晴れの良い天気です。
今日は湯島のオフィスに出かける予定だったのですが、予定を変えてもらい、休むことにしました。
節子がいたら、紅葉狩りに行こうということになるのですが、それもできません。
節子がいない紅葉は、ただたださびしいだけでしょうから。
それで、最近やっていなかった畑仕事をしようと思います。
せっかくきれいになった家庭農園も、しばらく手を抜いていたら、また草が一面に茂ってしまいました。
自然のいのちの強さは、本当に素晴らしい。
人のいのちも、本当はそうなのでしょう。
文化や文明が、いのちを弱いものにしてしまったのでしょう。
だから悪いというわけでは、もちろんありませんが。

最近は自然と遊ぶことが少なくなりました。
わが家の狭い庭にも、たくさんの自然はあります。
しかし自然をきちんと世話していかないと、自然は人との交流を拒絶してきます。
その意味では、自然も人も同じかもしれません。
節子が元気だった頃は、私の守備範囲は池の周辺だけでした。
節子は、池は嫌いでした。
庭に穴を掘るのが好きではなく、転居前の家では、私のお気に入りの池を埋めてしまったほどです。
当時、私の両親の病気など、いろいろと凶事が重なり、節子は池のせいだと思ったのです。
だから転居後は、池を造るはずではなかったのですが、私の還暦祝いに家族で池を造ろうということになり、節子も一緒に造った池なのです。
その池が節子を奪ったのではないと思ったこともあります。
人は、時に思わぬ想像力を働かせるものです。

その池は、いまは草薮に隠れそうなほどになっています。
節子がいた頃は水が流れたりしていましたが、いまはその仕掛けも壊れてしまっています。
ですから荒れ放題なのですが、実は私はそれがまた好きなのです。
しかし、荒れた池には付き合いにくさがあります。
語りかけようがないのです。
数年前には、大きなガマ蛙が池の中の土管の中にいました。
その時はさすがに驚き、ガマ蛙をつかまえて近くの手賀沼にまで放しに行きました。
節子がいなくなってからは、それもさぼっています。
最近はどんな生き物が棲んでいるでしょうか。

池はともかく、庭は節子の世界でした。
節子がいなくなってしまった庭は、年々、荒れ果て、花木は少なくなってしまっています。
表情が少なくなり、人を受け容れるよりも、拒否しているような気もします。
節子が戻ってきたら、さぞかし嘆くことでしょう。

しかし、今日は庭ではなく、畑の草取りにでかけましょう。
紅葉狩りから草取りへと、私の生活も変わってしまったものです。

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2012/10/15

■節子への挽歌1870:「生を看取る」

節子
前に少しだけ言及した、小畑さんの「地域・施設で死を看取るとき」の本を読み終えました。
私も取材を受けて、私たちのことが材料になった「物語」も出てきます。
先日送ってもらったものの、実はなかなか読もうという気が起きませんでした。
それで1週間以上、放置していたのですが、昨日読み出したら、とても素直に読み進められ、結局、読み終えてしまいました。
本の感想はホームページに掲載しました

この本の企画段階で、小畑さんから協力を頼まれましたが、「死を看取る」という言葉にどうしても抵抗があって、自分では書けませんでした。
それで最初はお断りしましたが、それに対して、小畑さんから次のようなメールをいただきました。

いろいろご負担おかけして申し訳ありませんでした。
奥様への挽歌も拝見し、
ご逝去の間際まで、奥様がいかに生きるかに心を砕かれたこと、
そして、今でも、佐藤さんの中で奥様が生き続けておられることがよくわかりまし
た。
小畑さんは諦めなかったのです。
そして結局、私は取材を受けることにしたのです。
もしかしたら、小畑さんは私の心を開いてやろうと思っていたのかもしれません。

本の紹介文にも書きましたが、この本を読みながら、この本は「死を看取る」というよりも、「生を看取る」がテーマではないかと思いました。
つまり、「死を看取る」とは「生を看取る」ことなのです。
小畑さん、あるいは研究者や支援者は「死を看取る」発想かもしれませんが、当事者は「生を看取る」発想なのです。
私は、節子に対して、「死を看取る」などと考えたことは一度たりともありません。
しかし「生を看取る」という発想は、あったような気がします。

小畑さんはまた、老いの否定する最近の社会風潮に懸念を表しています。
とても共感できます。
私の世代になると老いを実感できますし、死も身近で日常的に起こります。
しかし老いは決して悪いことではなく、死もまた自然に受け容れられる日常現象です。
わざわざ「看取る」などと構えなくても、それらしい関係は日常的に存在しています。
だからこそ、さりげなく「生を看取る」、言い方を換えれば、「共に生を重ねる」ことが大事になってきます。
しかし、それは体験者であればこその気づきであり、思いです。
ちなみに、本書の副題は「いのちと死に向き合う支援」となっています。
これも私は単に「いのちに向き合う支援」でいいと思いますが、死を体験したことのない人には、死はとても重いのでしょう。
しかし、死は体験してみれば、実体のない概念でしかありません。
老いも死も、体験しないと理解できない概念です。
ちなみに、私はまだ生きていますが、臨死体験ではなく、死そのものを体験したと実感しています。

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■節子への挽歌1869:幸せを振りまく人

節子
昨日も手づくり散歩市のカフェを開きました。
雨が降りそうな天気で、しかも午後になったら急に寒くなったのですが、それでもめずらしい人が何人か来てくれました。
私と同世代の人も何人かいました。
最初に来てくれたのが節子もよく知っている安藤さんです。
会社に一緒に入社した同期生ですが、昨年、フランスのモンサンミシェルを目前にダウンしてしまい、以来、長旅は出来なくなってしまったようです。
今年になって、同期生は4人亡くなっています。
そういえば、昨日来てくださった足代さんも、謡の先生が練習日の翌日に倒れてしまい、ショックだったと話されていました。
まあそんな話が、この年になると多いのです。

しかし、今日はそんな話を吹っ飛ばすような、明るく元気なご夫妻がやってきてくれました。
お近くの住む山内ご夫妻です。
私が山内さんと知り合ったのは昨年ですが、もう80歳を超えられているそうですが、とてもお元気そうです。
いまも農業協同組合新聞の論説委員としてご活躍ですが、ともかくお元気そうです。
ご一緒にこられた奥様は、さらに元気で、ご自宅で料理教室を週3回も開かれている上に、さまざまな活動をされているようです。
笑顔が絶えないお2人を見ていると、どうしても節子を思い出してしまいます。
こういう老夫婦になりたかったです。
まあ今となっては、叶わぬ夢ですが、山内さんたちを見ていると、それだけでなんだか幸せな気分になってきます。
それでついつい写真を撮らせてくださいと頼んでしまいました。
その写真をここに載せたかったのですが、考えてみると許可をもらっていませんでした。
しかし、実に心があたたまるお2人の笑顔です。
掲載できないのが残念です。

昨日、カフェに来られなかった人に、山内さんが来たよと伝えたら、
「私も、山内さんって素敵な方だなあって、いつも感じています」とメールが来ました。
周りに幸せを振りまいてくれている人って、いるものなのです。
節子はいなくなってしまいましたが、私一人でもそんな存在になれるといいなと思っています。
節子がいたら間違いなくなれたと思いますが、一人だとやはりちょっと不安があります。
少し努力しないといけないかもしれません。

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2012/10/13

■節子への挽歌1868:葉牡丹

昨日、挽歌を書かなかったので、今日はもう一つ書きます。
手づくり散歩市のカフェに、花かご会の山田さんが来てくれました。
娘たちも交えて、花かご会の話をいろいろとお聞きしました。
前にも書きましたが、花かご会も今年で10周年だそうです。

メンバーにもいろいろと変化があったようです。
10年も経てば、当然でしょうが。
花かご会は、我孫子駅南口の花壇の整備をするために生まれたグループです。
とても良い人たちの集まりで、節子は最後の最後まで花かご会のことを話していました。
節子にとっては、とても思いの深いグループなのです。

山田さんから今年の冬は葉牡丹が植えられるかもしれないとお聞きしました。
節子がいた事は、時々、冬は葉牡丹だったこともありましたが、そういえば最近はあまり見かけませんでした。
山田さんが、佐藤さんは葉牡丹が好きでしたよね、と言いましたが、まさにそうなのです。
節子はなぜか葉牡丹が好きでした。
わが家では、節子以外は葉牡丹が好きではありませんでした、
私は花壇に植えるべき花ではないのではないかとさえ思っています。
それで、節子がいなくなってから、わが家では次第に葉牡丹は姿を消して、最近は見かけません。
どうも花かご会も同じだったようです。
幸いにも節子と同じように、葉牡丹が好きなメンバーもいるようで、時々、葉牡丹にしようという提案もあるそうですが、毎回却下されていたようです。
ところが今年は、その人たちがいつも却下されると嘆いたようで、今年は久々に復活するらしいです。
節子、良かったですね。
今年の駅前花壇に葉牡丹が復活するのですから。

しかし、なんで節子は葉牡丹が好きなのでしょうか。
私はどうも好きになれません。
こればっかしは、節子の希望には応じかねますね。
わが家には今年の冬も葉牡丹は復活しません。

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■節子への挽歌1867:今年も手づくり散歩市です

今日は地元我孫子市で手づくり散歩市が開かれています。
娘のタイル工房が会場のひとつになっているので、そこに来た人に珈琲サービスをしようと、これに合わせてわが家の庭でカフェを開店しています。
まあお客さんは少ないのですが、私はそこに終日ボヤっと座っているわけです。

節子はこういうのが大好きでした。
そもそもこのサービスを始めたのは節子でしたから、始めの頃は節子が頑張ってパウンドケーキなどを焼いていました。
最初の頃は、ほとんどは家族で食べていましたが。

今日もちょうどお昼時に来たお客様がいました。
今年はケーキを用意していなかったので(ビスコッティは用意していました)、困ったなと思っていたら、ユカがアップルパイを焼いて持ってきてくれました。
節子の文化が根づいているようで、とてもうれしかったです。

節子がいたら、さぞかし頑張っていろんな人を呼び込むことでしょうね。
そしてわが家にとっても楽しいイベントになるはずですが、私だけではちょっと無理がありそうです。
明日はユカもいないので、どうしようかと思っています。

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■我孫子の手づくり散歩市でカフェを開いてます

今日と明日、私が住んでいる我孫子市では手づくり散歩市が開催されています。
以前は我孫子在住のアーティストたちが出展して、賑やかにやっていたのですが、残念ながら年々さびれてきています。
私も以前は少し関わったのですが、最近はまったく関わってはいません。
ただ、娘がスペインタイル工房をわが家の庭に開いているので、その関係でわが家も会場の一部になっているのです。
それで、私もそれに便乗して、タイル工房に来てくれたお客様に、庭で珈琲サービスをさせてもらっています。
今年もカフェを開店しています。

Tegacafe

ただわが家はメイン会場からちょっと離れた飛び地なので、お客様は多くはないのです。
昨年はむしろ工房のお客様と言うよりも、私の知人が話に来ると言う感じでした。
そういう人は工房を見ることもなく、珈琲と私との話で帰ってしまうので、いささか娘には悪いなと思っていました。
それで今年は、ホームページなどにも案内は出さなかったのですが、むしろ娘のタイル工房へのお誘いを昨夜、我孫子界隈の人たち数名に送らせてもらいました。
ちょっと気づくのが遅すぎたので、あんまり効果は無いかもしれないと思っていましたが、今日は2人の方がやってきてくれました。

天気にも恵まれて、庭のカフェも好評でした。
居心地がいいので、だいたい1時間以上、居てくれます。
年に1回のカフェですが、なかなか楽しいものです。
明日はどんな人が来てくれるでしょうか。
もしよかったら、お越しください。
9時開店、5時閉店です。
場所は
我孫子市白山1-27-6。
手賀沼公園の近くです。
手づくり散歩市の案内マップに「スペインタイル工房 Taller de JUN」で出ているところです。

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2012/10/12

■「成長が無ければ世界経済の未来は危うい」

IMF・世銀年次総会が開幕されました。
その冒頭、ラガルドIMF専務理事は「成長が無ければ世界経済の未来は危うい」と述べました。
あいもかわらぬ「成長発想」です。
この発想をどう克服していくかが、未来を危うくしない道ではないかと思っている私には、とても違和感のある言葉です。
このまま(現在のような経済の)成長が続いていけるはずがありません。
そのことは40年前のローマクラブの「成長の限界」以来、盛んに言われ続けてきたことだったはずです。
しかし、実際には、世界の経済を主導する人たちはだれも本気で発想を変えることはなかったようです。
ローマクラブの「成長の限界」は、「全体」をシミュレーションして、そういうメッセージを出しましたが、昨日も書いたように、いつの間にかまた全体ではなくそれぞれの狭い専門領域でしか考えなくなったようです
全体を見なければ、いうまでもなく無限の成長は論理的に可能です。
しかし、実際にはそんなことはありえません。

もちろん成長を否定するつもりはありません。
ただ「成長」がなければ未来がない経済ではなく、成長がなくても、みんなが幸せに慣れる経済を目指したいと思います。
IMFや世界銀行に、それを期待するのは無理なことはわかっていますが、経済は大きなパラダイム転換をする時期に来ていることを、私たちはもっと認識すべきだと思います。
お金だけが経済ではないのですから。

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2012/10/11

■節子への挽歌1866:鳥の頭の酉年生まれ

節子は何年生まれだったっけ、と娘に聞きました。
私はそういうのはすぐ忘れてしまうのです。
記憶しようという意志がほとんどないのです。
いや思い出そうという意志も弱いのです。
知っている人に訊けばいいことは覚える必要がないというのが、私の生き方です。
困ったものですが、これは直りません。
そのくせ、どうでもいいことは覚えている。
まあ人間はみんなそうでしょうが、私の場合、ちょっと覚えている領域が普通とかなりずれているのです。
節子もそうでした。

娘が「鳥の頭の節子は酉年でしょう」と教えてくれました。
そういえば、この会話はこれまでも何回か繰り返されています。

「鳥の頭」とは、物忘れの激しいこと、あるいは、記憶力の弱いことのたとえです。
「三歩で 忘れる鳥頭」と言うそうです。
私は実はあまり知らなかったのですが、節子がそういっていたのでしょう。
たしかに節子は「鳥の頭」の要素がありました。
しかし、かく言う私も、実は「鳥の頭」かもしれません。
ともかくよく忘れるのです。
それは必ずしも歳のせいではないのです。
子どもの頃からです。
学業はそれなりに良かったので、誰もそれを信じませんが、実に記憶力が悪いのです。
だから節子とはうまくいったのかもしれません。

記憶力が悪いので、お互いに相手に「○○を覚えておいてね」と言い合っていたのですが、それができなくなってしまっています。
娘に代役を頼もうと、「○○を覚えておいてね」と頼んでも、そんなことは自分で覚えておいてね、と言われておしまいです。
もしかしたら、娘も「鳥の頭」かもしれませんね。
しかし、それにしても母親を「鳥の頭の節子」などというのはなんと言う親不孝者でしょうか。
困ったものだ。

ちなみに私は、巳年生まれです。
へびの頭も鳥の頭とそう違わないのです。
せめてネズミかサルの頭くらいは欲しいような気もしますが、しかし「三歩で 忘れる鳥頭」というのは、実にいいのです。
なによりも生きやすい。
しかし、節子がいなくなったことだけは、5年も経つのに忘れられません。
困ったものです。

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■「誰も全体を見ていなかった」

今朝の朝日新聞の「カオスの深淵」に出てくる記事です。
2008年11月、ロンドン大学政治学院の新築ビル開所式で、来賓のエリザベス女王が居合わせた経済学者たちになにげなく質問しました。
「どうして、危機が起きることを誰もわからなかったのですか?」
それに対して誰も十分は返答ができず、後日、学者や実務家が集まって討議し、手紙で女王に報告したそうです。
手紙に署名したティム・ベズリー教授の言葉が載っています。
「誰も全体を見ていなかった」。
現代世界の本質を示唆する言葉です。

私は、2008年の金融破綻は「誰も見ていなかった」とは思っていませんし、むしろ「誰かが意図していた」と思っていますが、しかし、学者や専門家にはそうした見識のある人はそう多くなかったことはよくわかります。
学者や専門家の関心は、世界ではないからです。
しかし、普通の常識的な判断力のある人であれば、2008年の金融危機は予想できたでしょう。
難しい理論などは不要です。
ただきちんと生活していれば、当時の金融状況は、どう考えても長く続くことには無理があるとわかったはずです。
学問のあり方が変わりだしているのです。
生命や生活から、改めて学の体系を構築し直すべきだと私は思います。

これは何も世界金融危機だけの話ではありません。
いまの日本の政治もまた、各論的な最適化を目指して進んでいます。
それは以前書いたように、理念ではなく目先の問題解決で動いています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2012/09/post-7345.html
おそらく「誰も全体を見ていない」のでしょう。
全体を見るためには、理念や価値観が不可欠です。
つまり全体を束ねる芯がなければ、全体は姿を現しません。
言い換えれば、どこから見るかで全体像は変わってしまうのです。

よく、新しい歴史は辺境から起こるといわれます。
辺境にいるほうが、全体を見やすいことはいうまでもありません。
しかし多くの人は、ど真ん中のほうが全体が見えるとつい思いがちです。
しかし、人間の目の視界は360度ではないのです。
全体が見えるはずがありません。

ただ辺境は、さまざまです。
東の端か西の端かで、これもまた全体の見え方は違ってきます。
どこに視座を置くかは、理念や価値観によって決まってくるのです。
それが定まっていないと、辺境から見る全体は多様すぎて、やはり見えてきません。
新しい風を起こす辺境とは、実は次の時代の全体の中心なのです。
理念やビジョンが、それを呼び込むのです。
そこを見定めている人には、全体だけでなく、大きな時代の流れも見えてきます。

今の政治は「中央制御室」がない、とよく言われます。
そのため、首相でさえ何もできないわけです。
しかし、そもそも中央制御室という発想が間違っているのかもしれません。
複雑なシステムを論理分解しても、全体は見えてこないでしょう。
いまこそ、ただ素直に「全体を見て感ずる」ことが大切です。
まずは今の自分の生き方を、素直に見てみることから、それは始めなければいけません。

ノーベル賞を受賞した山中教授のすばらしいところは、そうした全体像を見る感覚をお持ちのことではないかと思いながら、テレビでの言動をお聴きしています。
新しい研究者の登場を感じます。

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2012/10/10

■映画「ボーンレガシー」にがっかり

私が何回見ても飽きない映画が「ボーン・アイデンティティ」から始まるボーン3部作です。
その4作目が出来るというので楽しみにしていましたが、監督も主役も変わってしまいました。
救いはボーンの役を違う俳優がやるのではなく、ボーンの戦いの裏側で繰り広げられていた、もう1人のスパイ アーロン・クロスの物語という内容です。
つまりボーンが出てこないボーンシリーズの作品なのです。

作品は「ボーンレガシー」。
主役はジェレミー・レナー。私の知らない俳優です。
あまり食指は動かなかったのですが、おなじみのキャストも再登場というので、観たくなって映画館に行ってきました。
前半では、これまでのボーンの映画のシーンも時々出てきて、シリーズのつながりを感じさせてくれます。
ちょっと期待はしたのですが、「おなじみのキャストも再登場」という触れ込みは羊頭狗肉で、ほんのワンカットか、あるいは前作のシーンが出てくるだけなのです。
脚本もよくありません。
これまでの3部作の脚本を担当した人が監督だと聞いていましたが、実に中途半端な脚本です。
それにアクションシーンも今までの作品の二番煎じです。
せっかく観に行ったのに、なにやら騙された感じです。
しかし、主役のジェレミー・レナーはなかなかいいです。

この作品は、間違いなく5作目を意識していると思いますが、まあボーン3部作を次につなげる作品だと考えれば、まあ許せます。
一種のプロモーション映画と言うわけです。
はやくきちんとした続きをつくってほしいです。
そして6作目で、ボーンとアーロン・クロスが出会うのではないかと期待したいですが、彼らは対決的出会いではなく同志的出会いにならざるを得ないでしょう。
だとしたら、その共通の敵は国家そのものかもしれません。
そこまで壮大な構想を期待できるでしょうか。

いずれにしろ、今日は期待を裏切られて、ちょっとがっかりしています。
次回作と次々回作が待ち遠しいです。
ちなみに、わざわざ映画館まで行くほどの作品ではないように思います。

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■節子への挽歌1865:まあるい石からの思い出

節子は「まあるい石」が好きでした。
完全な球ではなく、なんとなく丸っこい石という意味です。
海岸に行くと時々拾っていました。
そのまあるい石が、わが家のところどころに置いてあります。
先日、メジロの墓標に使ったのは、その石です。

まあ、これはコレクションというほどのものではありませんが、コレクションというのも当人以外の人にとっては単なるごみでしかないのかもしれません。
前に書いたように、私はフクロウの置物を集めていて、それこそわが家のいろんなところに置きたかったのですが、家族の評判はよくありませんでした。
節子でさえ、あまり賛成はしませんでした。
私が死んでしまったら、このフクロウたちは処分されるのでしょうか。
中にはベネチアングラスの面白いのもあるのですが、まあ関心のない人にとっては邪魔なだけでしょうね。
コレクションと言うのは、多くの場合、まあそんなものです。

幸いに私たちはあまり物に執着しない夫婦でした。
思いついたように集めだしますが、すぐに止めてしまう傾向が2人ともありました。
節子は一時、洋ナシとリンゴの置物を集めていましたが、これは実に短かったです。
多分わが家にもせいぜい20くらいしか残っていないでしょう。
神社仏閣のご朱印を集めていたようですが、これもさほどマジメではなく、集めている割にはいつもご朱印帳を忘れていってました。
先日もある本を開いたら、京都三千院のご朱印がはさまれたままでした。
まあ、こんなふうに、節子はいい加減だったのです。
そういう点では、私とどっこいどっこいだったでしょう。
もしかしたら私が節子に影響を与えてしまったのかもしれませんが。

さて、まあるい石です。
よく拾いに行ったのは、湯河原の千歳川河口です。
何のために拾っているのか知らなかったのですが、ある時に浴室にスーパーミニ石庭ができていました。
こういうのは、節子の得意芸のひとつでした。
もうその石庭は跡形もありませんが。

わが家の庭にも、そうしたちょっとした仕掛けがもっとあってもいいのですが、節子はその余裕もないまま、病気になり、逝ってしまいました。

節子は、私にとって、実に楽しい人だったのです。
その節子がいなくなり、楽しいインテリアの登場も少なくなりました。
まあるい石は、ただのまあるい石に戻ってしまっているのです。

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2012/10/09

■節子への挽歌1864:暮らしはじえまらケンカをしていたようです

節子と一緒に暮らし始めた時の「2人で自由に書き込んだ日記」が出てきました。
読み直してみると、我ながら気恥ずかしい。
それを公開するなどというのはもっと気恥ずかしい。
万一、娘がもし読んだら、それこそ気恥ずかしいどころではない。
迷うところですが、一部、書いてしまいます。
まあ読みたくもないでしょうが。

書き出しは、1967年1月22日になっていいます。
私たちは出雲大社の前で2人だけの結婚儀式だったのです。
つまりこの日が私たちの結婚記念日なのです。
ほんとは1月11日にしたかったのですが、私が休めなかったのです。
それで22日なのですが、どうせなら2月22日にすべきでしたね。

私の書いたところだけ書き出します。

かわいい指にダイヤのリングをはめた時、ぼくは約束した。
おまえをずっとずっと愛しつづけると。
そして、世界で一番幸せな女にすると。
そう出雲の神々に約束した。
「若気の至り」としか言い様がありません。
それはそれとして、そこから次に私が書いているのが2カ月後なのです。
まあ、世の中ってのは、いろいろだと思う。
この2か月間の変転に、つくづくと感じた。
この2か月の間に何があったのでしょうか。
節子なら覚えているかもしれませんが、私には全く何も思いつきません。
しかしまあ、あまりに唐突で常識的でなかったので、いろいろとあったのでしょう。
つづけての文章が、これまたひどいものです。
ハネムーンはたのしかった。
大社前でのリングのセレモニーが結婚式ってのも冴えていたと思うが、
ハネムーンの初日にカメラがこわれちゃうのも、やはり冴えていたと思う。
しかし、さらに、よくよく考えてみると、カメラは前々からこわれれいたんだから、なお冴えている。
わけのわからない文章ですが、これが当時の私だったのでしょう。
当時、シュールな生き方は、私の好みでした。
しかし、どこが冴えているのか、まったく理解できない、
節子も苦労したことでしょう。
その日記の続きに、節子がそれらしきこと、つまりちょっと苦労しただろうことが書かれています。

まあ、昔から私は、わけのわからないことを書いていたようです。
よくまあ、節子はついてきたものです。
よほどの変わり者としかいいようがない。

ちなみに、この「2人の日記」は、1年で終わっています。
最後の書き込みは節子でした。

1年がアッという間に経った。
この間、ケンカもよくした、よく笑った。よく泣いた。
しかし、この頃のケンカはなかなかキビシイ。
来年もまた、泣き笑いの1年が来ますように。
どうも私たちは、最初の年からきびしいケンカをしていたようです。
私には覚えがまったくないのですが。
人間の記憶など、いい加減なものですね。

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■誰が鳩山政権を潰したのか

私は民主党の副総理の岡田さんがどうしても許せません。
私が期待した鳩山政権を潰した張本人だと、思っているからです。
最近また時々テレビに出るので、見たくない顔を見る機会が増えています。
昨日は腹を立てないでおこうと思っていたのですが、今日は腹を立てることにしました。

元外務省官僚だった孫崎享さんの「戦後史の正体」が話題になっています。
内容は、アメリカに対して日本の国益を主張した政治家はすべて葬られたという話です。
これではちょっと粗雑過ぎると怒られそうですね。
本書の帯には「元外務省・国際情報局長が最大のタブー「米国からの圧力」を軸に戦後70年を読み解く!」とあります。
出典を明確にしたしっかりした情報にもとづいて、孫崎さんは敗戦の時からの外交史を、自主路線と対米追随路線に分けて、わかりやすく解説してくれています。
読まれた方も多いでしょうが、内部告発本のひとつとして面白い本です。
私の周辺ではとても評判がよいですが、ネットなどでは賛否両論がまわってきています。
それがまた面白いのですが。

私も読んではいますが、そう面白かったわけではありません。
というよりも、そんなにていねいに教えてもらわなくても、大筋はわかっていることですし、現役時代に告発せずに、いまさら言ってもね、という気がして、あまり好意的には読めなかったのです。
もちろん現役時代にも、孫崎さんは内部では異を唱える存在だったでしょう。
本書にも、たとえば、小泉政権のイラク参戦時には反対をしたことが書かれています。
しかし、それで悪魔に手を貸した一員だったことが許されるわけではありません。
時世が変わり、自らの立場が変わると、大きな声でものを言い出す人は、私はどうも信頼ができません。
本書の価値は評価しながらも、何となくすっきりしないので、これまで本書を誰かに勧めたことはありません。

まあそうは言っても、この本は多くの人たちに読んでほしいとは思います。
特に最後のあたりに書いてある次の文章は、読ませたい人がたくさんいます。
私が友愛政治こそあるべき政治だというとバカにする人が多いですが、これくらいのことは知っていてほしいです。

鳩山首相が「最低でも県外移転」といったことに対して、政府内のだれも鳩山首相のために動こうとしませんでした。首相が選挙前に行なった公約を実現しようとしているのに、外務省も防衛省も官邸も、だれも動こうとしなかったのです。異常な事態が起こっていました。日本の政府が首相ではなく、米国の意向にそって動くという状態が定着していたのです。

鳩山さんの「県外移転」の決意を指示されながら、岡田外相(当時)はまったく動かず、むしろ「県外移転は難しい」と公言さえしました。
この卑劣な裏切行為は、私には許しがたいのです。
反対だったのであれば、外相を受けるべきではないでしょう。
彼もまた「トロイの木馬」だったのです。

第二自民党になってしまった民主党政権の支持率はまた大きく低下してしまいました。
憂鬱で仕方がありません。

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■節子への挽歌1863:小鳥が死んでいました

節子
今朝、リビングのガラス戸の外に小鳥が死んでいました。
昨日、留守にしていた間にガラスにぶつかってしまったのでしょう。

わが家は高台にあり、リビングの大きなガラス戸の前方の空間が広がっているので、時々、鳥がぶつかるのです。
大きな鳥であれば、大丈夫ですが、小さな鳥が思い切りぶつかり、うちどころが悪いとこうなってしまいます。
これで2回目でしょうか。
すぐに気づけば、手当てもできますが、昨日は気づきませんでした。
とてもきれいなメジロでした。
庭のサザンカの樹の下に深く穴を掘って弔いました。
節子が好きだった丸い石を乗せ、一輪の花を添えました。

Mejiro

ちなみに、このメジロは節子ではないでしょうね、
節子は、なぜか「鳥(や花)になってちょいちょい戻ってくるから」と言っていたのを思い出しました。
そういえば、昨日留守にしたのは、節子のお墓参りでした。
先日の月命日に墓参りに行くのをさぼっていたので、催促に来たのでしょうか。
鳥がぶつかったところは、まさに節子の位牌壇のすぐ横なのです。
それにしても、鳥を犠牲にしてはいけません。
しかしガラス戸は空を自由に飛び舞う鳥には迷惑なものでしょう。
悪いことをしてしまいました。

メジロの墓標に手を合わせながら、ネアンデルタール人が死者に花を添えていた話を思い出しました。
花は、死者との交流に不思議な効力を発揮します。
花を通して、心が彼岸に通ずるのです。
いままで無意識に節子に花を供えていましたが、そのことにハッと気づきました。

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2012/10/08

■政治が動かないことに腹を立てないために

民主党と自民党の代表選挙が終わったにもかかわらず、わが国の政治は動き出しません。
こんな大変な時に、一体どうなっているのだろうかといぶかしく思いますが、まあ見方を変えれば、そんなものかとも思えます。

ウルリヒ・ベックの「危険社会―新しい近代への道」は、実に示唆に富む本です。
出版されたのはチェルノブイリ原発事業の直前ですが、事故後に書かれたのではないかと思わせられるほどに説得力があります。
福島後の日本の状況も、ベックのお見通しの通りです。

その本でのベックのメッセージの一つは、政治が分化し、サブ政治というべきものが社会にとって大きな位置を占めていくだろうということです。
サブ政治とは、本来政治の領域に属してはいなかった科学技術や経済が政治的な機能を果たしだすということです。
「公権力に裏付けられた政治」と「公権力の裏づけのないサブ政治」と言ったらわかりやすいかもしれません。
政治の方向を定め、執行力を持っている政治は、日本の場合、民主主義の原理が働いています。
つまり国民の選挙によって公権力が与えられ、しかもその意思決定は公開の場で行われます。
しかし、サブ政治の技術や経済の世界は、あくまでも私的な世界であり、民主主義的な意味での正当性は保証されていません。
したがって、サブ政治が大きな役割を果たすということは、明らかに政治の変質です。

ベックはこう書いています。

政治と非政治との間の不明確な転換が生じる。
政治的なものが非政治的になり、非政治的なものが政治的になる。
ベックは、こうした動きを「一種の革命」だと考えています。

こうした「政治の変質」を踏まえて考えると、今の日本の政治状況はわかりやすくなります。
以前、私は日本の首相は生徒会長のような存在になったのだから毎年変わってもおかしくないと書きましたが、いまや首相が決められることはそう多くはないのです。
生徒会の会長を思い出せば、わかってもらえるでしょう。
野田政権が脱原発方針に関して揺れているのは、野田首相の考えに起因しているわけではないでしょう。
決めているのは、あるいは決めかねているのは、技術や経済のサブ政治かもしれません。
内閣をはじめとした政治にあまり期待してはいけないのです。
首相はたかだか生徒会の会長のような存在なのですから。
生徒会の会長の大変さを思いやってやらねばいけません。

でもそろそろ生徒会会長の選挙をしたいものです。
せめてみんなの声を理解してくれる人に、生徒会をゆだねたいですから。
それに、これから寒くなっていきますし。

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■節子への挽歌1862:「あなたといるだけで 幸せがある」

節子
もう一度、歌の話を書きます。
湯河原から持ち帰ったもう一枚のCDは、荒木一郎の初期の作品のCDです。

私たちが一緒に暮らしはじめた時に、2人が一番気にいっていたのは、荒木一郎でした。
たしか京都の新京極のレコード屋さんで何気なく手にとって買ったLPです。
2人とも、それまで全く知らない歌手でした。
しかし、最初に出てくる「ギリシアの唄」が、2人ともすごく好きになりました。
いま聴いてみると、なんであんなに気にいったのだろうかと不思議ですが、当時はお気に入りでした。
いつかギリシアに行こうという思いがそれぞれに生まれていたと思います。
節子とギリシアに行ったのは、それから30年以上経ってからでしょうか。
節子もギリシアは気にいったようでした。

荒木一郎には「あなたといるだけで」という曲があります。
これまではあまり気にならなかったのですが、今回は思わず聴き直してしまいました。
その詞に惹かれたのです。

あなたといるだけで 幸せがある
 あなたのまなざしが わたしのそばに
 あなたがそっと 見つめている時
 わたしの心に 虹が輝く
 ふくらんだ太陽が 明日に消えても
 わたしは悲しくない 明日があるのなら
 あなたといるだけで 幸せがある
あなたの言葉に 夢を見るでしょう

まさにそうでした。
あなたといるだけで 幸せがある
まさにそうでした。
明日に意味を与えてくれた節子は、どこに行ってしまったのでしょうか。

娘たちと一緒にお墓参りに行きました。
お墓参りはいつも節子と一緒だったのに、最近は娘たちとしか行けません。
それがいつもとても奇妙な感じです。

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2012/10/07

■節子への挽歌1861:幸せな時には哀しさにあこがれます

節子
昨日は「いのちの理由」のことを書きましたが、節子も私も、さだまさしのグレープの曲が好きでした。
湯河原に行くと、いつもグレープのCDをかけました。
先日、湯河原に行った時に、2枚のCDを持ち帰りました。
その1枚が「グレープ ザ・ベスト」でした。
久しぶりに聴いてみました。
それで気がついたのですが、なぜかみんな「悲しい歌」ばかりです。
「精霊流し」「縁切寺」「無縁坂」・・・。

若い時には、哀しさにあこがれます。
幸せな時にも、哀しさにあこがれます。
しかし、それにしても、哀しい歌です。
こんな哀しい歌を、私たちはどんな思いで聴いていたのでしょうか。
不思議です。
もしかしたら、節子は好きではなかったのかもしれない。
CDを聴きながら、ふとそんな気がしました。

そういえば、節子は、五輪真弓の「恋人よ」も好きでした。
節子はコーラスグループに入っていたにもかかわらず、音域は狭く、「恋人よ」は歌うのに向いていないと思いますが、よく歌っていました。
この歌も、決して明るくはありません。
ちなみに、歌に関しては、節子よりも私のほうが上手だと思いますが、節子は私の歌声が大好きでした。
私が歌うのを聴きたいと言われたこともありました。
しかし、それに応えたことはあまりありません。
いまなら何時間でも歌い聴かせてやるのですが。

幸せな時には哀しさにあこがれますが、哀しい時には何にあこがれるでしょうか。
少なくとも私の場合は、決して「幸せ」ではありません。
しかし、哀しさでもありません。
久しぶりに聴いた「グレープ ザ・ベスト」は、ただただ心を沈ませるだけでした。

なぜこんな歌を聴いていたのか。不思議でさえあります。
別れを予感していたのでしょうか。
そうかもしれないと思うと、心がさらに沈んできます。

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2012/10/06

■節子への挽歌1860:心から悲しめることの幸せ

さだまさしさんの「いのちの理由」という曲があります。
法然上人800年大遠忌を記念してつくられた曲だそうです。
法然は浄土宗の開祖で、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、みんな平等に往生できるという専修念仏の教えを説いた人です。

さだまさしさんは、この曲の作詞のために、法然上人の資料を読み込んだそうですが、そこから生まれてきた言葉が「幸せになるために誰もが生まれてきたんだよ」というフレーズだったそうです。
この曲はできたのは、2010年ですから、節子は現世では聴いたことはありません。
しかし、節子に聴いてほしい曲です。
いや、節子と一緒に聴きたい曲です。
一人で聴いていると、どうしても涙が出てきてしまいます。
それに、少しだけ納得できないのです。
曲はとても好きなのですが、歌詞に少しひっかかるのです。
http://www.youtube.com/watch?v=G-9M2cuDA48&feature=related

最後の歌詞は心に沁みてきます。
 私が生まれてきたわけは
 愛しいあなたに出会うため。
 私が生まれてきたわけは
 愛しいあなたを護るため。
私が生まれてきたわけは節子に出会うためだったと言うことには躊躇はありません。
しかし私には節子を護れなかったという悔いが、いまも大きく覆いかぶさってきます。
だからこの曲は、実はあまり素直には聴けないのです。

それに、こんな歌詞もついています
 春くれば 花自ずから咲くように
 秋くれば 葉は自ずから散るように
 幸せになるために誰もが生まれてきたんだよ
 悲しみの花の後から 喜びの実が実るように
しかし、悲しみの後に喜びが来るはずはありません。
悲しみの後ろにあるのは、ただただ悲しみだけなのです。
だからといって、幸せではないということではないのです。

心から悲しめることの幸せが、最近少しわかってきました。

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■「どんなふうにふるまい、生き続けていくか」

昨日、時評編を書き出すと書いたのですが、どうも批判的な記事しか思いつきません。
なにか明るいことを書きたいのですが、題材が思いつきません。
そこでハッと気がつきました。
それは私自身の生き方が、明るくないからではないかということに、です。
明るく生きている人には明るい話題が集まってくるものです。
まずは、自分の生き方を変えなければいけません。

先日、挽歌編に、アウシュビッツで虐殺されたエティ・ヒレスムの日記のことに触れました。
避け得ようのない死が身近に迫っていることを彼女は知っていました。
彼女は「神様、あなたでもこの状況はあまり大きく変えることはできないように見えます」と書いています。
しかし、その後のエティの言葉は予想外の言葉です。
「神様が私をこれ以上助けられないなら、私が神様をお助けしなくてはいけない」と書いているのです。
それにつづく言葉も、ハッと考えさせられる言葉です。
「大切なことは、ある特定の状況からどんな犠牲を払ってでも抜け出すことではない。大切なのは、ある状況の中でどんなふうにふるまい、生き続けていくかということだ」。
この文章を読んだのは10日ほど前ですが、この言葉が頭から離れません。

10日前は、私自身が日本の政治状況に怒り心頭に達していた頃です。
メーリングリストやフェイスブックでも、批判的な意見が山のように回ってきていました。
共感することも多く、私自身、いささか品の無い非難を込めた文を書いていたかもしれません。
しかし、エティは言うのです。
「大切なことは、どんなふうにふるまい、生き続けていくかということだ」。
「ふるまい生きる」ということは、不特定な対象に向けて「書く」ことではないでしょう。
そう思うと、急に自己嫌悪に襲われていました。
他者を非難することに、果たして何の意味があるのだろうか、とさえ思えてきました。

その一方で、フェイスブックで友人たちの書き込みを読んでいると、逆の意味で、虚しさが高まってきます。
こんな危機的な社会状況なのに、なんで毒にも薬にもならない写真ばかり載せるのかと、腹さえ立ってきます。
自分のことを棚にあげてですから、自分ながら身勝手な怒りです。
私も、まあそんな写真を時々載せているのです。

エティほど、誠実に真剣に生きることは、今の私には到底出来ません。
しかし、エティを見習うことならできるでしょう。
「大切なことは、どんなふうにふるまい、生き続けていくかということだ」。
この言葉が、頭から離れません。
ブログが書けなくなったのは、この言葉のせいだと気づきました。
エティが「自分の神」に語りかけたように、私も不特定多数にではなく、これからは「自分の神」に向けて書こうと思います。

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2012/10/05

■忙しさの罪

最近、挽歌は何とか書けていますが、時評編が書けずにいます。
時評の意欲がわかないというのも一因ではありますが、なによりも「気分的余裕」がないというのが大きな理由です。
それで思い出したのが、アテネのデモクラシーです。
アテネでは、働く者には参政権がありませんでした。
働いていては学ぶ時間もなく、社会全体への関心も視野も育たず、政治のことはわからないという考えもあったようです。
私は、この考えに馴染めず、アテネが近代民主主義の正反対の政治体制だったとずっと思っていました。
民主主義が古代ギリシアから始まったという考えにどうしても馴染めませんでした。
いくら美化しようと、古代ギリシアは奴隷制度を持つ社会でしかありません。

たぶん子ども時代にたくさんの古代ギリシア関係の本を読んだハンナ・アレントは、『人間の条件』で、人間の行為を「労働」「仕事」「活動」に分けました。
「労働」や「仕事」とは別の「活動」に注目したのです。
極めて大雑把に言えば、宗教と芸術と政治に関わるのが「活動」です。
それこそが人間のつとめであるということにはとても共感できます。
ハンナ・アレントの主張には、共感できることが少なくありません。
アテネの問題は、それを「分業」化してしまったことです。

話を自分に戻しますと、最近どうも、労働に追われて、やるべきことをやっていないという罪の意識があります。
それがもしかしたら、最近の私の「不安感」の理由かもしれません。
時評を書いたからといって、活動しているとは言えませんが、しかし、少なくとも時評を書くことで何となく感じていることを表象できます。
それがまた私の思考に影響を与えていきます。
まさに考えを文章に書くという行為は再帰作用を起こし、自らの社会性を高めてくれます。そして行動にさえつなげてくれるのです。
しかし、書くこともせず、行動もせず、ただ社会の動きを感じているだけでは自らの社会性や市民性は薄れていきます。
最悪の場合は、労働にまみれて経済人になってしまいかねません。

最近、時々、時間破産してしまいます。
作業時間がないという意味ではありません。
自分では背負えないほどの重荷に、時に思考力や気力を失ってしまうのです。
そういうなかでは、時評を書こうという気は起こってきません。
問題意識や好奇心さえ萎えてしまいます。
忙しいことは良いことだと言う人は、私の周りにも少なくありませんが、やはり忙しさは罪多いことだろうと思います。
みんなが経済的困窮の中で忙しくなっていることが、おそらく今の日本の一番の問題でしょう。
そうした状況下で、財界も政界も好き勝手をやっています。

明日からまた時評を書くようにしようと思います。

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2012/10/04

■節子への挽歌1859:「元とは違う元の姿」

節子
昨日から軽井沢で合宿でした。
久しぶりに山城経営研究所の風早さんとゆっくり話しました。
帰りの新幹線をご一緒したのです。
風早さんと最初に出会ったのはもう20年ほど前です。
当時、風早さんは某大企業の役員か部長だったと思いますが、いまは研究所で活動されています。
その風早さんが、佐藤さんは変わらないですね、と言ってくれました。
しかし風早さんは、私が大きく変わっていた時期のこともよく知っています。
節子を見送ってからの数年間ですが、あの頃は生気がないと感じていたでしょう。
私のことを心配してくださっていたかもしれません。
それほど一時期の私は、我ながらにも「無残」でした。

今回は、風早さんは、もう昔の佐藤さんですね、と言ってくれました。
たしかに、そうかもしれません。
壊れてしまったものは元には戻りませんが、外見的には、そして意識的には、自分でもそう思います。
でもまあ正確に言えば、「元とは違う元の姿」です。
しかも、そう思えるようになったのは、この数か月です。

ただ無意識の世界にいる自分は、全く違う存在といってもいいかもしれません。
それは決して元に戻らないばかりでなく、時間とともにさらに深まっていきます。
ですから、いつその意識化の私が顔を出すかもしれないという不安はあります。
しかし、「もう昔の佐藤さん」という言葉は、よけいな気遣いをしないで、前のように付き合えるということかもしれません。
そうであるならば、その期待を裏切らないようにしないといけません。

節子の闘病中、風早さんは毎日、快癒を祈ってくれていました。
口で言うのは簡単ですが、そんなことはそうそうできる話ではありません。
そして、節子を見送った後も、いつも私を気遣ってくれています。
風早さんのように、きちんと言葉にしてくれる人は、そう多くはありません。
風早さんと話していると、いつも必ずといっていいほど、節子を見送った後の私の話が出ます。
人によっては、あまりうれしくないのですが、風早さんの口から出ると、なにやらとてもうれしい気がします。
これもとても不思議な話です。
人は、無意識のうちに、言葉に含まれている思いを見分けるものなのでしょう。

風早さんは、20年前の自己主張の強い私と節子に先立たれ沈んでいる私と今の私をすべて見ています。
自分では気づいていない変化が、風早さんには見えているかもしれません。

また一度、ゆっくり話したいと風早さんは別れ際に言いました。
私がどう変化しているかを、一度、お聞きするのもいいかもしれません。
節子との別れは、私の交友関係にも大きな影響を与えているのです。

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2012/10/03

■節子への挽歌1858:説子と節子

節子
昨日、福岡の説子さんから電話がありました。
権藤説子さんです。
小宮山さんが福岡に行くというので、紹介したのです。
続いて小宮山さんからも電話がありました。
とても楽しい出合いだったようです。

お2人がとても打ち解けた関係になった一つの理由は「説子」という名前だったそうです。
小宮山さんのお姉さんの名前が、同じ「説子」だったのです。
そのおかげで、ちょっとおかしい展開になり、権藤さんが笑い転げながら私に電話してきたわけです。
まあそれだけの話なのですが、名前には奇妙な力があるようです。

「説子」と「節子」は音としては同じです。
しかし文字にするとイメージがかなり変わってきます。
話し言葉では同じでも、文字の世界では全く違った印象が残ります。
こういうことはたくさんあります。

そういえば、数日前に、この挽歌を偶然に見つけた「中野節子」さんという方がコメントを書き込んでくれました。
「偶然なのか必然なのか…。私の名前は、中野節子と申します」と。
その人は、ブログで、エジプトの中野さんの記事まで読んでくれて、「縁」を感じてくれたのです。

名前は大きな意味を持っています。
私は今も、娘たちから名前に関しては叱られています。
それなりの思いをもって、命名したのですが、まあ少し反省しています。
節子がいたら、応援演説をしてくれるのでしょうが。

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2012/10/02

■節子への挽歌1857:フクロウと目が合いました

節子
今日は土浦の陶器屋さんで、面白いフクロウを見つけました。
なにげなく立ち寄った土浦の街中のお店の店先に並んでいたのです。
お店には、ほかにも面白い陶器や陶芸品が並んでいました。
節子が好きそうなお店です。

ところがお店には誰もいません。
声をかけても出てきません。
土浦には、まだそんな文化が残っています。
ますます気に入りました。
かなり大きな声で何回か声をかけたら、ようやく人が出てきました。
このフクロウは、和田国夫さんが、清田(だったでしょうか)の土を使って創ったんですよ、この表情でいいですか、と訊かれました。
たしかに店内には他のフクロウもいましたが、店先のフクロウに目が合ったのですから、それ以外に気持ちが移ることはありません。

節子はよく知っていますが、私は以前、フクロウの置物を集めていました。
節子も協力してくれていました。
しかし、節子が病気になってから、なぜか集める気がなくなりました。
理由はわかりませんが、ともかくすべてのことが一度、終わったのです。
フクロウ集めも例外ではありませんでした。

しかし、今日、なぜかフクロウに目が合ってしまった。
実は、今日は娘に付き合ってもらって、土浦に行ってきました。
特に土浦に意味があったわけではありません。
ましてや土浦の街を歩くとは思ってもいませんでした。
節子が好きそうな街並みだなと娘に言ったら、節子の好みではないよ、と言われてしまいました。
街歩きの後、郊外の魚市場で海鮮丼を食べました。
豪快な盛り付けで、とても新鮮で美味しかったのですが、私は完食できませんでした。
この店は節子好みだね、というと娘も同感してくれました。

久しぶりに車で遠出しました。
フクロウとも目が合いました。

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2012/10/01

■節子への挽歌1856:慣れることができないこと

「何かに慣れるのと、何かを感じなくなるのとは別のことだ」と日記に書いたエティ・ヒレスムは、ナチスによるユダヤ人虐殺の犠牲者の一人です。
エティは1943年にアウシュヴィッツで虐殺されますが、戦後、その手紙と日記が出版されて大きな反響を呼びました。
エティは、自らが置かれた過酷な状況の中にあっても、加害者への憎しみの代わりに神への愛を書き残しています。
その日記を読んだウルリッヒ・ベックは、「エティはまるで自分自身に語りかけるように、神に語りかけた」と書いています(「〈私〉だけの神」)。

「何かに慣れるのと、何かを感じなくなるのとは別のことだ」という文章は、実は昨今の日本の政治状況のなかで思い出したのですが、正確の表現を確認するために原文を探しているうちに、ベックのこの文章に出会ったのです。
時評編を書くつもりが、急遽、挽歌編を書くことにしました。

「エティはまるで自分自身に語りかけるように、神に語りかけた」。
エティにとって日記を書く時間は、神と一緒に過ごす時間だったのでしょう。
そして、神とつながっているということが、彼女に生きる意味を与えたのでしょう。
生きる意味が確信できれば、人は恨みや愚痴は言いません。
加害者を恨むことも、自らの境遇を嘆きことも必要ないからです。
エティは、自らの生きる意味を確信し、しっかりと自らを生きることができたのです。

エティが神と共にあるように、私も挽歌を書いている時は、節子と共にある時間です。
書く前後の時間も含めて、毎日30分ほどのこの時間は、私にはとても意味のある時間です。
いわば「写経」のような時間なのです。
しかし、残念ながら、いまだに「生きる意味」を見出せずにいます。

ところで、エティが書いた文章です。
「何かに慣れるのと、何かを感じなくなるのとは別のことだ」。
この文章は、気になる文章です。
時評編ではこのことをベースに現在の私たちの生き方を問い質そうと思っていましたが、挽歌編で自分の問題として書いているうちに、ちょっと考えが変わってしまいました。

たしかに、節子のいない風景に、私はいま、かなり慣れてきているような気もします。
そして、感ずることはむしろ強まっています。
しかし、よく考えてみれば、「慣れている」のではなく、「追いやられている」というのが正確な表現のような気がしてきました。

人にはやはり、「慣れることができること」と「慣れることができないこと」があるようです。

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