■節子への挽歌1877:「私だけの神」
節子
毎日挽歌を書くことが守れないでいます。
節子を見送ってから3年間は、少なくともこんなことはなかったと思います。
それが最近は、ちょっとばたばたしてしまうと挽歌を書けずに、まあ今日はいいかと寝てしまうわけです。
まあ「気持ち的には無理をしない」という私の信条を、節子はよく知っていますから、節子はなんとも思わないでしょうが、私的にはちょっとは気になっています。
時間があるとかないとかは、ほとんど関係はありません。
時間がない時ほど、節子に語りかけたくなります。
時間がある時には、逆になんとなく節子と一緒にいる気がして、挽歌はさぼってしまうのです。
節子は実に不思議な存在です。
先日、エティ・ヒレスムのことを書きました。
エティには、彼女だけの神様がいました。
それをベックは「私だけの神」と呼びました。
絶望的な状況にあってもなお、エティが元気だったのは、事業武運小美玉市神様がいたからです。
最近、ソローの市民的不服従を読み直しました。
そこに底流している考えも同じように感じました。
自らをしっかり生き抜くには、自分の神様が必要なのかもしれません。
最近そのことを強く実感するようになりました。
節子との対話は、私のひとつの拠り所になっているのかもしれません。
今日は、あとできちんとした挽歌を書こうと思います。
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