■節子への挽歌1866:鳥の頭の酉年生まれ
節子は何年生まれだったっけ、と娘に聞きました。
私はそういうのはすぐ忘れてしまうのです。
記憶しようという意志がほとんどないのです。
いや思い出そうという意志も弱いのです。
知っている人に訊けばいいことは覚える必要がないというのが、私の生き方です。
困ったものですが、これは直りません。
そのくせ、どうでもいいことは覚えている。
まあ人間はみんなそうでしょうが、私の場合、ちょっと覚えている領域が普通とかなりずれているのです。
節子もそうでした。
娘が「鳥の頭の節子は酉年でしょう」と教えてくれました。
そういえば、この会話はこれまでも何回か繰り返されています。
「鳥の頭」とは、物忘れの激しいこと、あるいは、記憶力の弱いことのたとえです。
「三歩で 忘れる鳥頭」と言うそうです。
私は実はあまり知らなかったのですが、節子がそういっていたのでしょう。
たしかに節子は「鳥の頭」の要素がありました。
しかし、かく言う私も、実は「鳥の頭」かもしれません。
ともかくよく忘れるのです。
それは必ずしも歳のせいではないのです。
子どもの頃からです。
学業はそれなりに良かったので、誰もそれを信じませんが、実に記憶力が悪いのです。
だから節子とはうまくいったのかもしれません。
記憶力が悪いので、お互いに相手に「○○を覚えておいてね」と言い合っていたのですが、それができなくなってしまっています。
娘に代役を頼もうと、「○○を覚えておいてね」と頼んでも、そんなことは自分で覚えておいてね、と言われておしまいです。
もしかしたら、娘も「鳥の頭」かもしれませんね。
しかし、それにしても母親を「鳥の頭の節子」などというのはなんと言う親不孝者でしょうか。
困ったものだ。
ちなみに私は、巳年生まれです。
へびの頭も鳥の頭とそう違わないのです。
せめてネズミかサルの頭くらいは欲しいような気もしますが、しかし「三歩で 忘れる鳥頭」というのは、実にいいのです。
なによりも生きやすい。
しかし、節子がいなくなったことだけは、5年も経つのに忘れられません。
困ったものです。
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