■節子への挽歌1874:荷物が重くてふらふらです
昨日とは打って変わっての穏やかな日和です。
今日も湯島に来ています。
最近、次から次へと「気の重くなること」が連発しています。
お祓いをしたいほどです。
それでなくとも、最近はいささか気弱になっているのですが、かなり心身にこたえます。
一番の辛さは、その気持ちを吐き出すところがないことです。
まあこのブログを書くことぐらいが、最近の気分転換の場でしょうか。
そう思うと、いささか惨めな気分にもなります。
節子がいなくなってから、どこかで他者を拒絶するようなところがあります。
意識的にも行動的にもむしろ逆なのですが、時々、他者を拒絶している自分に気づくのです。
他者とのつながりを拒絶しながら、しかし他者とのつながりを広げ深めていく。
この「意識と無意識のずれ」は、自分ではどうしようもありません。
昔はこんなことはなかったように思いますが、ある意味でのアイデンティティ・クライシスです。
二重人格とか心の多重構造などの話には私も学ばせてもらってはいますが、自らの中にあるさまざまな自分を統合するのが、最近は難しくなってきました。
以前は、むしろそれを楽しんでいました。
いまは楽しむ余裕はなくなってきているのかもしれません。
あるいは、以前はそうした矛盾も「節子」という他者の存在で相対化され、統合されていたのかもしれません。
いまはそれがなくなりました。
長年、伴侶と支え合いながら生きてくると、一人になるとなかなかまっすぐに歩けません。
最近はどうも生きづらい毎日を生きています。
なかなか自立できません。
節子が心配したとおりになっているようです。
困ったものですが。
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