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2012/10/29

■節子への挽歌1884:死者をうらやむ気持ち

『苦海浄土 わが水俣病』を書いた石牟礼道子さんが、「3・11と私」(藤原書店)という本に、「花を奉る」という文章を書いています。
その冒頭の詩が心を打ちますが、その1節が、私にはどうしても節子と重なってしまいます。

花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて咲きいずるなり
花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに 声に出せぬ胸底の想いあり 
そをとりて花となし み灯りにせんとや願う

津波を受けた人への思いを節子に重ねてしまう身勝手さには、とても気が引けるのですが、心にその情景が浮かんでしまうと、もう二度と消すことは出来ません。
花はやはり、彼岸への入り口なのです。
節子は、また花になってちょいちょい戻ってくると読みにくい字で書き残してくれました。

それはともかく、石牟礼さんが、それに続いて書いている文章も、考えさせられるものでした。

あの大震災の中、体一本残った多くの人びとが言われた。「自分が生きていて、死者たちに申し訳ない」と。極限的な災難に遭われて、なおひとのことに思いを致し、心配しておられる。尊い心根である。

たしかにそれは「尊い心根」でしょうが、その気持ちは実に自然な感情の発露なのではないかとも思います。
こんなことを言うと、実も蓋もないかもしれませんが、愛する人を見送った人は、たぶん誰もそう思うのです。
もしかしたら、「なんで私ではなかったのだろうか」というのは、本当は逝ってしまった人への羨望なのかもしれません。
それほど愛する人を見送ることは心辛く、心さびしいものなのです。
実は、心配しているのは、送った人ではなく、残された自分なのかもしれないのです。
こうした心境は、微妙で自分でも整理できないのですが、「死者に申し訳ない」と思う気持ちのどこかに、死者をうらやむ気持ちが隠されているようにも思います。

私は、時々、位牌の前で、節子はいいよね、とつい口に出してしまいます。
残された者の辛さと寂しさは、節子にはわかりようはないでしょう。
よく「死者の分まで生きなければ」と言う人がいますが、私にはまったく受け容れられない言葉です。
石牟礼さんのメッセージは、いつも心に沁みますが、なぜか今回は、この文章に引っかかってしまいました。
お恥ずかしいことながら、1週間以上、考えてしまっていました。

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