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2012/10/01

■節子への挽歌1856:慣れることができないこと

「何かに慣れるのと、何かを感じなくなるのとは別のことだ」と日記に書いたエティ・ヒレスムは、ナチスによるユダヤ人虐殺の犠牲者の一人です。
エティは1943年にアウシュヴィッツで虐殺されますが、戦後、その手紙と日記が出版されて大きな反響を呼びました。
エティは、自らが置かれた過酷な状況の中にあっても、加害者への憎しみの代わりに神への愛を書き残しています。
その日記を読んだウルリッヒ・ベックは、「エティはまるで自分自身に語りかけるように、神に語りかけた」と書いています(「〈私〉だけの神」)。

「何かに慣れるのと、何かを感じなくなるのとは別のことだ」という文章は、実は昨今の日本の政治状況のなかで思い出したのですが、正確の表現を確認するために原文を探しているうちに、ベックのこの文章に出会ったのです。
時評編を書くつもりが、急遽、挽歌編を書くことにしました。

「エティはまるで自分自身に語りかけるように、神に語りかけた」。
エティにとって日記を書く時間は、神と一緒に過ごす時間だったのでしょう。
そして、神とつながっているということが、彼女に生きる意味を与えたのでしょう。
生きる意味が確信できれば、人は恨みや愚痴は言いません。
加害者を恨むことも、自らの境遇を嘆きことも必要ないからです。
エティは、自らの生きる意味を確信し、しっかりと自らを生きることができたのです。

エティが神と共にあるように、私も挽歌を書いている時は、節子と共にある時間です。
書く前後の時間も含めて、毎日30分ほどのこの時間は、私にはとても意味のある時間です。
いわば「写経」のような時間なのです。
しかし、残念ながら、いまだに「生きる意味」を見出せずにいます。

ところで、エティが書いた文章です。
「何かに慣れるのと、何かを感じなくなるのとは別のことだ」。
この文章は、気になる文章です。
時評編ではこのことをベースに現在の私たちの生き方を問い質そうと思っていましたが、挽歌編で自分の問題として書いているうちに、ちょっと考えが変わってしまいました。

たしかに、節子のいない風景に、私はいま、かなり慣れてきているような気もします。
そして、感ずることはむしろ強まっています。
しかし、よく考えてみれば、「慣れている」のではなく、「追いやられている」というのが正確な表現のような気がしてきました。

人にはやはり、「慣れることができること」と「慣れることができないこと」があるようです。

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