■節子への挽歌1870:「生を看取る」
節子
前に少しだけ言及した、小畑さんの「地域・施設で死を看取るとき」の本を読み終えました。
私も取材を受けて、私たちのことが材料になった「物語」も出てきます。
先日送ってもらったものの、実はなかなか読もうという気が起きませんでした。
それで1週間以上、放置していたのですが、昨日読み出したら、とても素直に読み進められ、結局、読み終えてしまいました。
本の感想はホームページに掲載しました。
この本の企画段階で、小畑さんから協力を頼まれましたが、「死を看取る」という言葉にどうしても抵抗があって、自分では書けませんでした。
それで最初はお断りしましたが、それに対して、小畑さんから次のようなメールをいただきました。
いろいろご負担おかけして申し訳ありませんでした。小畑さんは諦めなかったのです。
奥様への挽歌も拝見し、
ご逝去の間際まで、奥様がいかに生きるかに心を砕かれたこと、
そして、今でも、佐藤さんの中で奥様が生き続けておられることがよくわかりまし
た。
そして結局、私は取材を受けることにしたのです。
もしかしたら、小畑さんは私の心を開いてやろうと思っていたのかもしれません。
本の紹介文にも書きましたが、この本を読みながら、この本は「死を看取る」というよりも、「生を看取る」がテーマではないかと思いました。
つまり、「死を看取る」とは「生を看取る」ことなのです。
小畑さん、あるいは研究者や支援者は「死を看取る」発想かもしれませんが、当事者は「生を看取る」発想なのです。
私は、節子に対して、「死を看取る」などと考えたことは一度たりともありません。
しかし「生を看取る」という発想は、あったような気がします。
小畑さんはまた、老いの否定する最近の社会風潮に懸念を表しています。
とても共感できます。
私の世代になると老いを実感できますし、死も身近で日常的に起こります。
しかし老いは決して悪いことではなく、死もまた自然に受け容れられる日常現象です。
わざわざ「看取る」などと構えなくても、それらしい関係は日常的に存在しています。
だからこそ、さりげなく「生を看取る」、言い方を換えれば、「共に生を重ねる」ことが大事になってきます。
しかし、それは体験者であればこその気づきであり、思いです。
ちなみに、本書の副題は「いのちと死に向き合う支援」となっています。
これも私は単に「いのちに向き合う支援」でいいと思いますが、死を体験したことのない人には、死はとても重いのでしょう。
しかし、死は体験してみれば、実体のない概念でしかありません。
老いも死も、体験しないと理解できない概念です。
ちなみに、私はまだ生きていますが、臨死体験ではなく、死そのものを体験したと実感しています。
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