« ■節子への挽歌1858:説子と節子 | トップページ | ■忙しさの罪 »

2012/10/04

■節子への挽歌1859:「元とは違う元の姿」

節子
昨日から軽井沢で合宿でした。
久しぶりに山城経営研究所の風早さんとゆっくり話しました。
帰りの新幹線をご一緒したのです。
風早さんと最初に出会ったのはもう20年ほど前です。
当時、風早さんは某大企業の役員か部長だったと思いますが、いまは研究所で活動されています。
その風早さんが、佐藤さんは変わらないですね、と言ってくれました。
しかし風早さんは、私が大きく変わっていた時期のこともよく知っています。
節子を見送ってからの数年間ですが、あの頃は生気がないと感じていたでしょう。
私のことを心配してくださっていたかもしれません。
それほど一時期の私は、我ながらにも「無残」でした。

今回は、風早さんは、もう昔の佐藤さんですね、と言ってくれました。
たしかに、そうかもしれません。
壊れてしまったものは元には戻りませんが、外見的には、そして意識的には、自分でもそう思います。
でもまあ正確に言えば、「元とは違う元の姿」です。
しかも、そう思えるようになったのは、この数か月です。

ただ無意識の世界にいる自分は、全く違う存在といってもいいかもしれません。
それは決して元に戻らないばかりでなく、時間とともにさらに深まっていきます。
ですから、いつその意識化の私が顔を出すかもしれないという不安はあります。
しかし、「もう昔の佐藤さん」という言葉は、よけいな気遣いをしないで、前のように付き合えるということかもしれません。
そうであるならば、その期待を裏切らないようにしないといけません。

節子の闘病中、風早さんは毎日、快癒を祈ってくれていました。
口で言うのは簡単ですが、そんなことはそうそうできる話ではありません。
そして、節子を見送った後も、いつも私を気遣ってくれています。
風早さんのように、きちんと言葉にしてくれる人は、そう多くはありません。
風早さんと話していると、いつも必ずといっていいほど、節子を見送った後の私の話が出ます。
人によっては、あまりうれしくないのですが、風早さんの口から出ると、なにやらとてもうれしい気がします。
これもとても不思議な話です。
人は、無意識のうちに、言葉に含まれている思いを見分けるものなのでしょう。

風早さんは、20年前の自己主張の強い私と節子に先立たれ沈んでいる私と今の私をすべて見ています。
自分では気づいていない変化が、風早さんには見えているかもしれません。

また一度、ゆっくり話したいと風早さんは別れ際に言いました。
私がどう変化しているかを、一度、お聞きするのもいいかもしれません。
節子との別れは、私の交友関係にも大きな影響を与えているのです。

|

« ■節子への挽歌1858:説子と節子 | トップページ | ■忙しさの罪 »

妻への挽歌10」カテゴリの記事

コメント

佐藤様

pattiです。
長い夏がやっと終わりました。その間、体も気持ちもぐったりしていたのでしょう。
コメントする力が出ませんでした。
私の季節(?10月4日は私の誕生日なのです)が始まり、読書も進むようになりました。
秋の講座も再開し、仕事帰りの目的ができました。

先日、ある同僚に少し弱音をもらしたら、「明るくなってよかったね、と皆で言っていたのに」と返されました。しまったと思いましたが、精一杯の思いで出勤していることを
どこかでわかってほしかったのかもしれません。それでいて、この気持ちは経験した人でなければ絶対にわからないと確信はしています。だから家庭円満の方々に囲まれて仕事をしていると、雑談になるととても危険な心理状態になっていまうのです。たいていは、そっと離席することで回避しています。
私も、仕事をいつ辞めようかと毎日のように頭を駆け巡っています。幸い住宅ローン完済しています・・・彼が旅立つ3週間ほど前に「俺の貯金で残額返済しろ」と言ってくれたのです。それは、とても切ないことではありました。

今もこうして仕事を続けているのはなぜかと考えます。
佐藤様のように「生きることが仕事」とはとても言い切れませんし、組織や体制も馴染めいない事の方が多いのに。
ただ、確実に言えることは目の前で対応する方に真摯に向き合うこと、様々な事情を抱えている方と対応することもありますので、きめ細かく柔らかく接したいということ、その結果当たり前のことをしているだけなのに、感謝の言葉をもらえること。言葉を発しなくても、安堵の表情を見るだけでも私はほっとするのです。
その場の手続きの一つにすぎなくても、この一瞬の関係性も生活の、極端に言えば人生の大事なことだと思えるのです。生きている以上、人間は関係性の積み重ねで存在しているのでしょう。
そして、その最も強固なつながりが、伴侶との関係でした。
でした、と過去形で綴っていまいましたが、先日の講座で「死ぬまで寂しさ、あるいは自分を責める気持ちは消えることはない。でも、その思いと共に生き続けることが愛のしるしなのだ」と語ってくれました。「愛のしるし」の言葉に胸を突かれました。涙を抑えることができませんでした。
この世での「関係性の喪失」に打ちのめされてどうしようもありませんが、彼との魂と魂の関係は永遠なのだと強く強く思えるのです。これはとても幸せなことなのですよね。
私があえて言うまでもなく、佐藤様と節子様も素晴らしい魂のつながりの中にあります。
だからこそ私はこの挽歌がとても好きなのです。
私はブログはちょっと無理ですが、日々の思いと彼への語りかけのノートを続けています。書けない日もありますが。

久しぶりとは言え、すみません、またも長くなってしまいました。

投稿: patti | 2012/10/06 08:51

pattiさん
いつもありがとうございます。

まずはお誕生日、おめでとうございます。
すっかり遅くなってしまいましたが。

私も最近、また本が読めるようになって来ました。
本を読んでいると、色々な煩わしさから抜け出せ、安心です。
人と会うのは元気をもらえてうれしいのですが、元気でないものもついつい受け取ってしまいます。
それで時々、人嫌いになるのですが、これまでの生き方のせいで、いろんな人が声をかけてきてくれます。
それで見栄を張って元気を装いますが、時に疲れます。

「生きることが仕事」と私が言えるのは、ライフステージも関係しているかもしれません。
それに、そういう方向に20年ほどかかって、生き方を変えてきたことも関係しているかもしれません。

「魂の関係」は、私もそう感じます。
どこかでいまもなお深くつながっているという思いが、しっかりと私の心身に埋め込まれています。
それがいまこうしてしっかりと生きていられる理由かもしれません。
いや、むしろ生かされているという感覚なのですが。

いつもありがとうございます。
感謝しています。

投稿: 佐藤修 | 2012/10/10 08:53

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌1859:「元とは違う元の姿」:

« ■節子への挽歌1858:説子と節子 | トップページ | ■忙しさの罪 »