■節子への挽歌1864:暮らしはじえまらケンカをしていたようです
節子と一緒に暮らし始めた時の「2人で自由に書き込んだ日記」が出てきました。
読み直してみると、我ながら気恥ずかしい。
それを公開するなどというのはもっと気恥ずかしい。
万一、娘がもし読んだら、それこそ気恥ずかしいどころではない。
迷うところですが、一部、書いてしまいます。
まあ読みたくもないでしょうが。
書き出しは、1967年1月22日になっていいます。
私たちは出雲大社の前で2人だけの結婚儀式だったのです。
つまりこの日が私たちの結婚記念日なのです。
ほんとは1月11日にしたかったのですが、私が休めなかったのです。
それで22日なのですが、どうせなら2月22日にすべきでしたね。
私の書いたところだけ書き出します。
かわいい指にダイヤのリングをはめた時、ぼくは約束した。「若気の至り」としか言い様がありません。
おまえをずっとずっと愛しつづけると。
そして、世界で一番幸せな女にすると。
そう出雲の神々に約束した。
それはそれとして、そこから次に私が書いているのが2カ月後なのです。
まあ、世の中ってのは、いろいろだと思う。この2か月の間に何があったのでしょうか。
この2か月間の変転に、つくづくと感じた。
節子なら覚えているかもしれませんが、私には全く何も思いつきません。
しかしまあ、あまりに唐突で常識的でなかったので、いろいろとあったのでしょう。
つづけての文章が、これまたひどいものです。
ハネムーンはたのしかった。わけのわからない文章ですが、これが当時の私だったのでしょう。
大社前でのリングのセレモニーが結婚式ってのも冴えていたと思うが、
ハネムーンの初日にカメラがこわれちゃうのも、やはり冴えていたと思う。
しかし、さらに、よくよく考えてみると、カメラは前々からこわれれいたんだから、なお冴えている。
当時、シュールな生き方は、私の好みでした。
しかし、どこが冴えているのか、まったく理解できない、
節子も苦労したことでしょう。
その日記の続きに、節子がそれらしきこと、つまりちょっと苦労しただろうことが書かれています。
まあ、昔から私は、わけのわからないことを書いていたようです。
よくまあ、節子はついてきたものです。
よほどの変わり者としかいいようがない。
ちなみに、この「2人の日記」は、1年で終わっています。
最後の書き込みは節子でした。
1年がアッという間に経った。どうも私たちは、最初の年からきびしいケンカをしていたようです。
この間、ケンカもよくした、よく笑った。よく泣いた。
しかし、この頃のケンカはなかなかキビシイ。
来年もまた、泣き笑いの1年が来ますように。
私には覚えがまったくないのですが。
人間の記憶など、いい加減なものですね。
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