■節子への挽歌1875:写真は忘れ去るための記録
節子
美術評論家のジョン・バージャーの「見るということ」というエッセイ集を読んでいたら、スーザン・ソンタグの写真論に関するエッセイがありました。
ソンタグの写真論もバージャーの写真論もとても興味深いものがあります。
しかし、読んでいるうちに、机の前においてある節子の写真がとても気になりだしました。
節子がいた時といなくなってからとでは、私の写真との関係は一変しました。
昔は私も写真が大好きでした。
学生の頃は、自宅で現像までしていた時もあります。
どこにいくにも小さなカメラ(オリンパスペン)を携行し、撮っていました。
ですから家族の写真も、節子の写真もたくさんあります。
バージャーは、写真は忘れ去るための記録だと言います。
もう少しきちんとした文脈で引用しないといけませんが、まあ挽歌だから許してください。
最近の私には実にぴったり来る説明です。
バージャーはこう言うのです。
光景は一瞬の期待を永遠の現在に変える。記憶の必然性や魅力は失われる。記憶がなくなると、意味や判断の連続性もまた失われてしまう。カメラは記憶の重荷から私たちを解放するのである。
写真を撮影した時の「必然性や魅力」は、おそらく写真からは再現できないのです。
しかし、もしそこに写真を撮った時の人(たち)がいれば、その時の「現実」が再現されます。
つまり、忘れられた記憶を引き出すことができるのです。
言い換えれば、写真は撮影者と被写者とが一緒になって体験を再現するメディアです。
節子がいなくなってから、私は残された膨大なアルバムをほとんど見たことがありません。
その理由は明らかです。
一人で見ることによって、記憶が変質しかねないからです。
節子がいなくなってから、写真そのものを撮ることもなくなりました。
撮るとしても、人のいない風景や生物です。
そもそも以前は常に携行していたカメラを持ち歩かなくなりました。
なぜ写真を撮らなくなったのか。
答えは簡単です。
忘れ去るべき体験もなくなり、忘れ去る必要もなくなったからです。
節子がいなくなってからの時間は、内容のない時間になってしまっています。
私には、写真はいらなくなりました。
パソコンの前にある1枚の節子の写真は、私の心をなごませます。
しかしアルバムの膨大な写真は、私の心をなごませることはないでしょう。
たくさんのアルバムを見る気になる時が来るでしょうか。
来るかもしれないし、来ないかもしれない。
節子と過ごした時間は、思い出したくもあり、思い出したくもない。
自分ながらに、まだうまく整理できないでいます。
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コメント
佐藤様
数日前の挽歌、私も泣き出してしまいました。
私も抱きしめたかった。彼は私の手を力強く握り返してくれましたが、
もう一方の手は彼の妹さんが握っていました。彼の家族に囲まれて旅立ったことは
今でもよかったと思っています。
でも、ああ、私も抱きしめたかったと挽歌を読んで初めて強く思いました。
こうすれば良かったという後悔は切りがありません。
私にはこれだけ苦しくさみしいのは当然というほどの後悔があります。
幸福な出会いと時に感謝し、一方で反省どころか猛省しながら生きていくことが
せめてもの償いなのです。
旅の写真は私も見ることができません。
私たちはお互いはほとんど撮りませんでしたが、風景は・・・同じ景色を並んで見ていたのだと思うと胸がつまります。
私も同じくカメラもカレンダーも不要になりました。
patti
投稿: patti | 2012/10/21 10:10