■「どんなふうにふるまい、生き続けていくか」
昨日、時評編を書き出すと書いたのですが、どうも批判的な記事しか思いつきません。
なにか明るいことを書きたいのですが、題材が思いつきません。
そこでハッと気がつきました。
それは私自身の生き方が、明るくないからではないかということに、です。
明るく生きている人には明るい話題が集まってくるものです。
まずは、自分の生き方を変えなければいけません。
先日、挽歌編に、アウシュビッツで虐殺されたエティ・ヒレスムの日記のことに触れました。
避け得ようのない死が身近に迫っていることを彼女は知っていました。
彼女は「神様、あなたでもこの状況はあまり大きく変えることはできないように見えます」と書いています。
しかし、その後のエティの言葉は予想外の言葉です。
「神様が私をこれ以上助けられないなら、私が神様をお助けしなくてはいけない」と書いているのです。
それにつづく言葉も、ハッと考えさせられる言葉です。
「大切なことは、ある特定の状況からどんな犠牲を払ってでも抜け出すことではない。大切なのは、ある状況の中でどんなふうにふるまい、生き続けていくかということだ」。
この文章を読んだのは10日ほど前ですが、この言葉が頭から離れません。
10日前は、私自身が日本の政治状況に怒り心頭に達していた頃です。
メーリングリストやフェイスブックでも、批判的な意見が山のように回ってきていました。
共感することも多く、私自身、いささか品の無い非難を込めた文を書いていたかもしれません。
しかし、エティは言うのです。
「大切なことは、どんなふうにふるまい、生き続けていくかということだ」。
「ふるまい生きる」ということは、不特定な対象に向けて「書く」ことではないでしょう。
そう思うと、急に自己嫌悪に襲われていました。
他者を非難することに、果たして何の意味があるのだろうか、とさえ思えてきました。
その一方で、フェイスブックで友人たちの書き込みを読んでいると、逆の意味で、虚しさが高まってきます。
こんな危機的な社会状況なのに、なんで毒にも薬にもならない写真ばかり載せるのかと、腹さえ立ってきます。
自分のことを棚にあげてですから、自分ながら身勝手な怒りです。
私も、まあそんな写真を時々載せているのです。
エティほど、誠実に真剣に生きることは、今の私には到底出来ません。
しかし、エティを見習うことならできるでしょう。
「大切なことは、どんなふうにふるまい、生き続けていくかということだ」。
この言葉が、頭から離れません。
ブログが書けなくなったのは、この言葉のせいだと気づきました。
エティが「自分の神」に語りかけたように、私も不特定多数にではなく、これからは「自分の神」に向けて書こうと思います。
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