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2012/10/05

■忙しさの罪

最近、挽歌は何とか書けていますが、時評編が書けずにいます。
時評の意欲がわかないというのも一因ではありますが、なによりも「気分的余裕」がないというのが大きな理由です。
それで思い出したのが、アテネのデモクラシーです。
アテネでは、働く者には参政権がありませんでした。
働いていては学ぶ時間もなく、社会全体への関心も視野も育たず、政治のことはわからないという考えもあったようです。
私は、この考えに馴染めず、アテネが近代民主主義の正反対の政治体制だったとずっと思っていました。
民主主義が古代ギリシアから始まったという考えにどうしても馴染めませんでした。
いくら美化しようと、古代ギリシアは奴隷制度を持つ社会でしかありません。

たぶん子ども時代にたくさんの古代ギリシア関係の本を読んだハンナ・アレントは、『人間の条件』で、人間の行為を「労働」「仕事」「活動」に分けました。
「労働」や「仕事」とは別の「活動」に注目したのです。
極めて大雑把に言えば、宗教と芸術と政治に関わるのが「活動」です。
それこそが人間のつとめであるということにはとても共感できます。
ハンナ・アレントの主張には、共感できることが少なくありません。
アテネの問題は、それを「分業」化してしまったことです。

話を自分に戻しますと、最近どうも、労働に追われて、やるべきことをやっていないという罪の意識があります。
それがもしかしたら、最近の私の「不安感」の理由かもしれません。
時評を書いたからといって、活動しているとは言えませんが、しかし、少なくとも時評を書くことで何となく感じていることを表象できます。
それがまた私の思考に影響を与えていきます。
まさに考えを文章に書くという行為は再帰作用を起こし、自らの社会性を高めてくれます。そして行動にさえつなげてくれるのです。
しかし、書くこともせず、行動もせず、ただ社会の動きを感じているだけでは自らの社会性や市民性は薄れていきます。
最悪の場合は、労働にまみれて経済人になってしまいかねません。

最近、時々、時間破産してしまいます。
作業時間がないという意味ではありません。
自分では背負えないほどの重荷に、時に思考力や気力を失ってしまうのです。
そういうなかでは、時評を書こうという気は起こってきません。
問題意識や好奇心さえ萎えてしまいます。
忙しいことは良いことだと言う人は、私の周りにも少なくありませんが、やはり忙しさは罪多いことだろうと思います。
みんなが経済的困窮の中で忙しくなっていることが、おそらく今の日本の一番の問題でしょう。
そうした状況下で、財界も政界も好き勝手をやっています。

明日からまた時評を書くようにしようと思います。

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