■人間が機械化しだしているようで不気味です
美術評論家のジョン・バージャーは「20世紀の企業資本主義によって人間と自然を繋いでいた伝統はすべて壊されてしまった」と著書『見るということ』で書いています。
彼はまた、「そこかしこで動物が消えていく。動物園では動物が自らの滅亡の生きた記念碑となっている」と書いています。
まだ自然とささやかに繋がりを持ち、動物にも出会えている私としては、いささか言い過ぎではなかろうかと思いますが、大きな流れとしては、そうなのかもしれません。
もっとも、彼がいう「消えていく」というのは、実際に絶滅するという意味ももちろん含まれるでしょうが、人間が住む世界から周縁に追いやられてしまうという意味です。
彼はさらに恐ろしいことを書いています。
「今日動物に続いて周縁化が著しいのは、中・小作農階級である。彼らは、長い歴史にわたり動物と親しみ、それによって得た知識を維持してきた唯一の人々である」というのです。
これは、人間と動物(自然)とをつないできた存在がいなくなることを意味するのではなく、人間が動物(自然)から孤立しつつあるということでしょう。
デカルトから始まった近代の思想は、動物を機械と考えたわけですが、今や人間も機械化しはじたという話です。
そう言われて考えてみると、私たちは、もうかなりの程度、機械になってきてしまっているのかもしれません。
機械と言うよりも機械部品と言ったほうが正確かもしれません。
機械と言っても、全体ではなく部分でしかないのです。
自嘲的過ぎる気もしますが、機械になってなぜ悪いのかと言われると答えられません。
私は機械の部品ではなく自分の意思で主体的に生きたいと思っていますが。そんな思いは独りよがりの発想で、そもそもそんな生き方はもはや許されないのかもしれません。
何かわけのわからないことを書いてしまいましたが、最近のニュースを見ていると、心底、そんな気分になってしまいます。
それに最近、テレビで話している人が、どうしても「人間」に見えないのです。
もしかしたら、あれはみんな機械仕掛けの人形かもしれないと感じることもあります。
なかには私の知人もいますが、彼らも改造されてしまったのかもしれません。
そんな不気味さを最近よく感じます。
いまの社会は、どうも「生気」(いのち)を感じません。
みなさんはいかがですか。
私だけがおかしいのでしょうか。
機械の部品になってしまうと誰かの都合で廃棄されてしまうこともありますが、ややこしい「生気」(いのち)などないほうが、逆に部品としては重宝されるのかもしれませんね。
生きづらい時代になってきました。
| 固定リンク
「生き方の話」カテゴリの記事
- ■個人判断してはいけない時代だったことに気づきませんでした(2023.01.27)
- ■「嘘つきは政治家のはじまり」にしてはいけません (2023.01.26)
- ■布教が目的になってしまえば人の救済にはなりません(2023.01.11)
- ■自らを恵まれた場所に置いていると事実は全く見えてこない(2023.01.10)
- ■月収5万円でも豊かに暮らせる社会(2023.01.09)
コメント