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2012/10/16

■節子への挽歌1871:畑に草抜きに行きましょうか

節子
秋晴れの良い天気です。
今日は湯島のオフィスに出かける予定だったのですが、予定を変えてもらい、休むことにしました。
節子がいたら、紅葉狩りに行こうということになるのですが、それもできません。
節子がいない紅葉は、ただたださびしいだけでしょうから。
それで、最近やっていなかった畑仕事をしようと思います。
せっかくきれいになった家庭農園も、しばらく手を抜いていたら、また草が一面に茂ってしまいました。
自然のいのちの強さは、本当に素晴らしい。
人のいのちも、本当はそうなのでしょう。
文化や文明が、いのちを弱いものにしてしまったのでしょう。
だから悪いというわけでは、もちろんありませんが。

最近は自然と遊ぶことが少なくなりました。
わが家の狭い庭にも、たくさんの自然はあります。
しかし自然をきちんと世話していかないと、自然は人との交流を拒絶してきます。
その意味では、自然も人も同じかもしれません。
節子が元気だった頃は、私の守備範囲は池の周辺だけでした。
節子は、池は嫌いでした。
庭に穴を掘るのが好きではなく、転居前の家では、私のお気に入りの池を埋めてしまったほどです。
当時、私の両親の病気など、いろいろと凶事が重なり、節子は池のせいだと思ったのです。
だから転居後は、池を造るはずではなかったのですが、私の還暦祝いに家族で池を造ろうということになり、節子も一緒に造った池なのです。
その池が節子を奪ったのではないと思ったこともあります。
人は、時に思わぬ想像力を働かせるものです。

その池は、いまは草薮に隠れそうなほどになっています。
節子がいた頃は水が流れたりしていましたが、いまはその仕掛けも壊れてしまっています。
ですから荒れ放題なのですが、実は私はそれがまた好きなのです。
しかし、荒れた池には付き合いにくさがあります。
語りかけようがないのです。
数年前には、大きなガマ蛙が池の中の土管の中にいました。
その時はさすがに驚き、ガマ蛙をつかまえて近くの手賀沼にまで放しに行きました。
節子がいなくなってからは、それもさぼっています。
最近はどんな生き物が棲んでいるでしょうか。

池はともかく、庭は節子の世界でした。
節子がいなくなってしまった庭は、年々、荒れ果て、花木は少なくなってしまっています。
表情が少なくなり、人を受け容れるよりも、拒否しているような気もします。
節子が戻ってきたら、さぞかし嘆くことでしょう。

しかし、今日は庭ではなく、畑の草取りにでかけましょう。
紅葉狩りから草取りへと、私の生活も変わってしまったものです。

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