■節子への挽歌1893:生と死は裏表であって、後先ではない
節子
昨日は1日がかりで冲方丁の「光圀伝」を読みました。
あまりにも分厚い本なので途中で少しだれてしまいましたが、夜中までかかって読み終えました。
「光圀伝」は、愛と義と生がテーマです。
まあそう思うのは、私だけかもしれませんが、この小説は2つの死の話から始まります。
それが中途半端でなく、強烈なエピソードなのです。
極めて映像的で、今も頭からイメージが消えないほどです。
最初の死は、光圀自身が自ら愛する部下を「義」のために殺す死です。
2番目の死は、光圀の父が、やはり愛する芸人を斬首し、その愛を形にする死です。
いずれの場合も、殺される人はそれを十分に予感して、光圀やその父の前に出てくるのです。
出てこない選択は十分にあるにもかかわらず、です。
つまり「生きるための死」とさえも言えるかもしれません。
実に哀しく、実に恐ろしい話です。
節子にはとても受け容れ難い話でしょう。
私も、嘔吐したくなるほどの酷い話です。
以前なら、こんな話は心には残らなかったかもしれません。
しかし、本書を読み終えて感ずるのは、ある安堵感です。
死は決して醜くはなく、哀しくもなく、分かち合えるものかもしれないという、不思議な感情です。
とてもあったかな並行線が敷かれていることもありますが、それだけではありません。
死が、愛と義とを踏まえて語られているからです。
意味があれば、どんな死も報われます。
そもそも人に「死」という概念が生まれたのは、いつのことなのでしょうか。
もしかしたら、それは過渡的な一時の現象かもしれないという気もします。
もう少ししたら、死という概念がなくなるかもしれません。
個体の生が、大きな生に組み込まれていくということなのですが。
そして大きな生は、終わりようがありません。
愛する人の死を体験した人がすべてそうだと思えませんが、
少なくとも私の場合は、死の意味が一変しました。
私の一部が死に、節子の一部が生きている。
そういう感覚の中では、死と生とは同時に存在する裏表であって、後先ではないのです。
またいささか不消化のことを書いてしまいました。
「光圀伝」のメッセージはなんなのだろうかと、今日、1日考えていたのですが、それがわかりません。
しかし、出だしの2つの死のエピソードは、心に深くひっかかってしまっています。
だからともかく何かを書いておきたかったのです。
どこかで節子につながっているような気がしたからです。
それが何かはまだわかりませんが。
節子に、またわけのわからないことを書いてるわね、と言われそうです。
困ったものです。
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