■ネットからはなれた生活
いささかさまざまなことに疲れてしまい、先週後半、世間からの逃避行に出かけていました。
自然の中で、それなりにのんびりし、それなりにハードに身体を動かしていました。
携帯もメールもやめていたのはたった2日半ですが、それでもいろいろと自分の生き方を見直す契機にはなりました。
昨日の午後、パソコンと携帯を開き、留守電やメールへの対応をしましたが、なんとなく続ける気にならず、先ほどまで、また1日、パソコンから離れていました。
毎週日曜日に更新することになっているホームページは、先週更新せずに知人に心配をかけてしまったので、最小限の更新だけしておきました。
フェイスブックは4日間見ていないので、かなりたまっているでしょうが、私からの発信もしていないので、私に絡んだ記事はあまりありません。
フェイスブックのイメージも、ちょっと変わってしまいました。
この間、「構造災」(岩波新書)を読みましたが、そこに「逸脱の常態化」ということが書かれていました。
ルールの逸脱が常態化していくことが、安全に大きな影響を与えることを指摘しているのですが、生き方においても同じ落し穴があると思いました。
最近の私の生き方は、まさに「逸脱の常態化」が進行しています。
素直に考えて、生き方としてやはりどこか間違っていると感じ出したのです。
朝起きて先ず私がやることはパソコンの電源を入れ、メールをチェックすることです。
そして就寝前には、やはりメールチェックをして、パソコンを切るわけです。
これはやはりどう考えてもおかしい、そう感じたのです。
先日、大阪に出かけたときも、新幹線の中でアイパッドでメールやネットをやっていました。
そのおかげで、たしか米原近くまで外を見ることもありませんでした。
お金に呪縛される生き方からは、かなり自由になっていると思っていましたが、
気がついたらネットに呪縛されているようです。
実は「逸脱の常態化」に関しては、もっと大きな逸脱も感じてしまいました。
以前から私は、社会から大きく脱落していると実感しているのですが、そこにある「優越感」も感じていました。
社会そのものが、私にはひどく間違ったものになっているような気がしているからです。
しかし、間違っているのは自分ではないのかという気がしてきました。
もしそうだとすれば、それこそ私は正しく社会から脱落しているわけです。
優越感などではなく、反省をしなければいけません。
とまあ、4日ほど、社会の流れから少し外れて暮らしただけで、自らをそれなりに相対化することが少しだけできました。
かなり気が重くなってしまったのですが、まあ少しずつ軌道修正しながら、ネットもほどほどまた再開しようと思います。
たまりにたまった課題や約束は、明日から解消していきます。
それにしても、疲労はあまり蓄積させないほうがいいですね。
まだ回復できずにいます。
回復の方法がわからないので、仕方がないのですが。
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