■節子への挽歌1901:「純と愛」
節子
NHKの朝ドラは、いま「純と愛」というのをやっています。
主人公の一人である愛は、人の本性が見えてしまうので、人の顔がまともに見られない。
もう一人の主人公の純は、裏表がないので、その愛も安心して付き合えるという設定です。
純ほどではないでしょうが、私もまあ、表情と本性がかなり同じはずですので、愛に付き合ってもらえるかもしれません。
表情と本性が同じだということは、単純で何も考えていないということかもしれませんので、あまり自慢にはなりません。
むしろみんなに迷惑をかけることが多いとも言えます。
事実、その朝ドラでは、純が周りに迷惑をかけ続けています。
しかも純の言動は粗野なので、ドラマとはいえ、朝から見ていて気持ちのいいものではなく、むしろ私にとっては、不愉快なタイプです。
ですから、この朝ドラは好きではありませんが、これまでの習慣でつい見てしまいます。
表情の奥に本性を見るというのは、私から言えば、「性格の悪さ」以外の何者でもありません。
自らの心の汚れや狡さが写っているだけでしかないように思います。
もし本当に愛が純粋であるならば、すべての本性が清らかに見えるでしょう。
人をだましたことのない人は、そもそも「だます」ということが理解できないはずです。
まあドラマですから、そんな詮索は無用なのですが、
ちなみに、私は人の本性がまったく見えません。
みんな同じに、あえて言えば、「良い人」に見えるのです。
そういう自分が、私は気にいっています。
節子も気にいってくれていました。
節子も、私と同じで、裏表が使い分けられない人でした。
だから私は節子が気にいっていました。
そしてお互いに、付き合いやすかったのだと思います。
娘たちからは、私たちは「だまされやすい」といつも笑われていました。
実際に、ある意味では「だまされた」こともあるかもしれません。
しかしこれも考えようで、だまされるのは決して悪いことだけではないのです。
それを「良し」とするか「悪し」とするかだけの問題かもしれません。
それに、当事者と観察者では、その意味もまったく違うでしょう。
良し悪しは、コインの裏表でしかありません。
もしかしたら、私たち夫婦は、お互いに騙され続けているのかもしれません。
かけがえのない人、そう思い込んでいるだけかもしれません。
しかし、そう思えることにこそ、意味があるのかもしれません。
相手を完全に信頼できるという体験は、たぶんそう簡単ではありません。
最近、つくづくとそう思います。
| 固定リンク
「妻への挽歌10」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌2000:2000回を迎えました(2013.03.01)
- ■節子への挽歌1999:節子の手作り雛人形(2013.02.28)
- ■節子への挽歌1998:ルクソール(2013.02.27)
- ■節子への挽歌1997:記憶の共同体(2013.02.27)
コメント