■節子への挽歌1904:隣にポカンと穴が開く
もう一度、安藤さんのインタビュー記事からの引用です。
昨日隣にいた人が、今日はいない。そこにポカンと穴が開くのはごく当然のことでしょう。「物理的にいなくなること=死」をどう受け止めていくかによって、死者とのかかわりが生まれ、死者に対するリアリティや死者との経験、儀式や作法といったことが生まれてくる。物理的にいなくなったからといって、それですべてが終わって、無になってしまうような、そういうこと自体が現実にはあり得ないということなんです。今日は夜の集まりがあるので、湯島に来ています。
暗くなってきました。
一人でこの時間を過ごすのが、私はとても苦痛なので、だいたいぎりぎりになるまで用事をいれているのですが、1時間ほど時間の穴ができてしまいました。
その穴ということで、安藤さんのこの言葉を思い出したのです。
昨日隣にいた人が、今日はいない。
そこにポカンと穴が開く。
この感覚は、たぶん体験した方はよくわかるでしょう。
何とかそこをうめたくなる。
そうすると、見事にうまるのです。
穴が開くことは、受け容れられないのです。
今まで隣にいた人が無になるなどということには、まったくリアリティがないのです。
にもかかわらず、そこには「存在するべき存在」がない。
だから混乱してしまいます。
しかし生命の維持機能でしょうか、存在しない人が実感できるようになってくるのです。
それで何とか持ちこたえられます。
たしかに隣にはいないけれど、どこかにいる。
それが彼岸です。
こうして人は自らを彼岸に近づけていく。
そし此岸を生きられるようになっていきます。
ところが、そのあるはずもない穴が見えてしまうことがある。
夜の帳がおりてくる、夕方こそが、その時です。
夕闇はそれを感じさせてしまうのです。
まさに彼岸と此岸がつながって、一人では耐え難いほどさびしい時間です。
夕方は、外を見たくないのですが、今日はうっかり見てしまいました。
一度見ると、そこから逃れられなくなるのです。
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