■節子への挽歌1896:時間が経つほど辛くなることもあります
節子
節子には話していないですが、昨年の3月、東北で大きな地震が起こり、それによって大津波が三陸の沿岸を襲いました。
たくさんの人が、そのためにいのちを落としました。
今日は、その東日本大震災から1年8か月目です。
被災地ではいろいろな集まりがあったようです。
私の体験から言えば、愛する人を亡くした人たちにとっては、悲しさやさびしさがますますつのる時期です。
体験したことのない人は、1年半以上経てば、悲しみやさびしさ、辛さが少しは軽くなっていると思うかもしれません。
そんなことはありません。
深まりこそすれ、軽くなどなりません。
しかし、いつまでも悲しみを表わすのをよしとしない人も多いでしょう。
いつまで悲しみに浸っているのかと、言われそうな気がするからです。
それに、悲しみに浸っていると、ますます辛くなるということもあります。
だからと言って、見栄を張って、もう大丈夫などと言うのも、辛いものがあります。
そんな複雑な時期なのですが、テレビでの報道を見ていると、なにか辛い気がします。
テレビのカメラを向けられたら、私も元気そうに笑うでしょう。
自らの心を素直に表現することなど、そう簡単に出来ることではありません。
そういう人たちの表情をついつい深読みしてしまう自分に時々気づきます。
だから、そういうニュースや番組を見るのが好きではありません。
私の場合、ただ妻を亡くしただけなのに、時間は癒してくれません。
娘たちがいるにもかかわらず、です。
家族を一挙に失った人の悲しみはいかばかりでしょうか。
節子を見送って5年以上経つのに、まだこんな状態です。
節子
今年もまた、寒い冬が来ました。
心身をあたためてくれる節子がいない冬の寒さはこたえます。
東北はもっと寒いでしょう。
彼岸はあったかいのでしょうか。
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