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2012年12月

2012/12/31

■節子への挽歌1947:今年も何とか年を越せます

節子
今年も終わりです
今年は散々な年でした。
でもどうにかみんな元気で年越しです。
先ほど、ジュンたちがきて、みんなで年越し蕎麦を食べました。
病み上がりのユカも、この3日間、がんばって大掃除でした。
お墓参りもみんなで行ってきました。
娘たちが、お煮しめとおなますをどっさり作ってくれました。
節子の残した文化はまあ続いています。
大晦日はテレビなど見る時間もないのが、わが家の文化でしたが、その文化も続いています。

今年は、私自身もいろいろとありましたが、さまざまな気づきのあった年でもあります。
節子から学んだことは実に多いです。
それにしても、節子のいない世界に、こんなに長く留まることになろうとは思ってもいませんでした。
節子のいない大晦日は、とてもさびしいです。

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■水俣病は殺人事件なら福島原発事故はなんでしょうか

今年亡くなった原田正純さんの取材番組をテレビで観ました。
原田さんは長年水俣病に取り組み、「苦海浄土」を書いた石牟礼道子さんと同じように、水俣病患者のみなさんたちと一緒に歩んできた医師です。

とても穏やかな原田さんが、
「水俣病は殺人事件。公害などという言葉でごまかしてはいけない」
と語っていました。
殺人を犯した犯罪者は誰か。
学者と企業関係者が実行犯でしょうが、その背後には政財界の悪者がひしめいています。
彼らは、水俣病患者とは対照的に、今もぬくぬくと贅沢三昧をしています。

原田さんは、こうも言っていました。
「化学工業を発展させるために、水俣の民は捨てられた」。
捨てたのは誰か。
国家であり、私たち国民です。
水俣の民の上に、私たちの豊かさが作り出されてきたのです。
10年ほど前に、水俣に行き、不知火湾に珊瑚が戻ってきたのを見せてもらいました。
もう亡くなってしまいましたが、漁師の杉本さんから獲ったばかりのシラスをいただきましたが、水俣産と聞いただけで、「こわい」と言う人がいるのに驚きました。
御用学者や政財界の人たちだけでなく、私たち普通の生活者も、水俣の人たちを捨ててきたのです。

原田さんはさらに言います。
「福島原発事故に対しては、水俣の教訓を生かした健康管理をしていかねばいけない」
と。
原田さんは、これが言いたかったのかもしれません。
私たちはいま、福島に対して、水俣と同じことをしているのかもしれません。
福島の人たちも、かつての水俣の人たちと同じことをしているのかもしれません。

それにしても、水俣病が殺人事件だと言い切った原田さんの思いを、きちんと受け止めている人がどれほどいるでしょうか。
政治家に、一人でもいれば、福島への対応も変わるはずです。
それほどの罪悪感を持った政治家は、私には見えません。
そして私たちも、もっと水俣の体験から学ばないといけません。
福島原発事故は私たち日本人みんなの問題です。
原田さんのメッセージを改めて考えたいと思います。

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■政治家の無知さ加減への失望

TPP参加に反対を表明し、結果的には民主党を離党した山田元農相は、私が比較的信頼していた政治家です。
ところが、最近、私のところにまわってきたメーリングリストで、とんでもない事実を知らされてしまいました。
それは鳩山グループの勉強会で、いま話題の孫崎さんが講演した時の記録映像の書き下ろし記事です。
いつの時点のものかよくわからないのですが、孫崎さんの「戦後史の正体」の本が席上、全員に配布されているようですので、少なくとも「戦後史の正体」が出版された後の集まりです。
と言うことは、今年の8月以降でしょうか。
いささか内容が意外すぎて、にわかには信じられないところもありますが、そこで山田元農相と孫崎さんのこんなやりとりが行われています。

山田:安保条約を詳しくは読んでないですけれども、あの中に破棄できるようになっているわけですね?
孫崎:そうです。
山田:どういう場合に破棄できるんですか?
孫崎:10年経ったら、通告すればいいんです。そしたら一年後に破棄できるんです。通告だけでいんです。それを岸(信介元首相)さんが盛り込んだんです。1970年以降はもうそれでいい。岸さんの時はまだできなかった。だから、1970年以降の政治家にできるように仕組んだんだと思います。
山田:それをずっと更新されてきたわけですね。
孫崎:いや、だから今も止めると言えばいいんです。
鳩山総理が「俺は1年後にやめる」という通告をすれば終わるんです。
山田:それが一番地位協定を変えるのに早いですね。

何をいまさらこんな初歩的な議論をしているのかと驚きました。
しかも、山田さんは「安保条約を詳しくは読んでないです」と驚くべき発言をしています。
臨時職員的な新人議員であればともかく、山田さんのようなベテラン議員の言葉とは思えません。
沖縄基地が民主党にとって最大のテーマになっていたのに、安保条約も読んでいない人がいたとは、衝撃的です。
それに安保条約10条のことは、少しでも日米安保に関心がある人なら誰でも知っているはずだと、私は思っていました。
私も2年前の4月にブログでそれについて書いていますし、友人は私のホームページにも投稿してくれています。
湯島のサロンでさえも、それは話題になっていました。
当時は、いろんな人がそれを語っていました。

鳩山さんが海外移転を発言した時にも、私はこの10条を発動すると思っていました。
発動しなくても、それを言い出せば、交渉の主導権は取れますから、鳩山さんの政策は実現すると思っていました。
それを邪魔したのは、岡田外相だろうと私は当時(今もですが)勘繰っていました。
岡田議員は日米の財界の代弁者と言うかトロイの木馬でしょうから、それを選んだ鳩山さんの責任でもありますが。

話が少しずれましたが、私が驚いたのは、山田さんの無知さ加減です。
議員は街頭演説する前にまずは学んで欲しいと私はずっと思っています。
政治家にとって大切なことは街頭演説ではありません。
しっかりと学び、事実を確認し、考えることです。
野田前首相のように、内容のない演説だけがうまくなる政治家が目指されているような気がしますが、大切なのは内容です。

山田さんのTPP反対も怪しくなってきました。
きちんと学び考えての反対ではないのかもしれません。
山田議員への信頼はなくなりました。
しかし、残念ながらそれは、山田議員への信頼と言うよりも、政治家全員に対してです。
政治家はもっと誠実に学んでほしいです。
演説術も大事ですが、それ以上に大切なものを忘れないでほしいです。


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2012/12/30

■節子への挽歌1946:「みずから」と「おのずから」の「あわい」

節子
東尋坊の茂さんと川越さんから、美味しいお餅が送られてきました。
今年後半はお会いする機会がなかったのですが、東尋坊で自殺防止の活動を続けています。
茂さんたちとのこんなに深く付き合うことになるとは思ってもいませんでしたが、それは節子も一緒に食べた東尋坊での美味しいお餅が始まりだったのです。
その美味しいお餅が届きました。

東尋坊で、茂さんたちと出会ったのは、節子が旅立つちょうど1年前でした。
なぜ東尋坊に行ったのか、そしてなぜ思いがけずに茂さんたちと出会ったのか。
考えてみると、そういう不思議なことはたくさんあります。
日本人は「みずから」と「おのずから」の間を生きていると、竹内整一さんは言っていますが、私の人生もそのとおりでした。
東尋坊に行ったのも、そして車を降りたその前に茂さんたちが偶然にいたのも、「みずから」と「おのずから」の「あわい」の結果でしょう。
節子がいなくなった空隙をうめるように、この活動に誘い込まれました。

「みずから」と「おのずから」の「あわい」。
人生を振り返れば、そうしたことがたくさんあります。
節子との最初の出会いも、そのひとつですし、結婚もそのひとつです。
そうであるならば、節子との別れも、そうかもしれません。

まさか節子がいない世界に、これほど生きるとは思ってもいませんでしたが、それもまたそうかもしれない。
天は慈愛に満ちていると同時に、非情でもあります。

節子
今年もユカが花を生けてくれました。
昨年と違って、今年はかなり抑え目ですが、ユリをたくさんいれてくれました。
大掃除はまだすんでいませんが、ジュンも手伝いに来てくれています。
大掃除のたびに、節子の残したものが、少しずつ消えていきますが、ゆっくりと消えていくので名残惜しさを味わえるようになって来ました。

「みずから」と「おのずから」の「あわい」のなかで、私の世界も動いています。

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2012/12/29

■福島の原発被害者を支援する気が一挙に萎えてしまいました

今日、福島に行った安倍首相に住民たちが笑顔で握手を求めているシーンがテレビで報道されていました。
この人たちは一体なんなのだろうかと唖然としました。
福島県民はまだ原発がほしいのでしょうか。
県知事だけかと思っていたら、福島県民も同じなのかとがっかりしました。
少しは他の地域の人も迷惑を考えてほしいものです。
こういう人たちが原発を推進してきたのでしょうね。
福島の原発被害者を支援する気が、一挙に萎えてしまいました。
実にかなしいシーンでした。

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■原発地域の断層議論の仕方

大飯原発再稼動の前の短い期間でしたが、日本では原発稼動ゼロの期間がありました。
その時、イギリスでは大きな話題になり、日本の評価が高まっていたという話は以前書きましたが、安倍政権でまたもや原発推進国家に戻ってしまったことをイギリスの人たちはどう受け止めているでしょうか。
たしかに、昨日もそうですが、反原発デモは続いています。
しかし多くの国民は、原発推進を目指している自民党政権を選びました。
さらには、戦争を目指している安倍さんを選びました。
多くの母親たちは子どもたちをまた戦争に送りたいのでしょうか。
そんなはずはないと思いたいのですが、その確信を持てません。
戦争と原発は、いうまでもなく深くつながっています。

1万人のデモ参加者よりも、一人のテレビコメンテーターの言葉のほうが大きなパワーを持つ時代になっているのかもしれません。
そしてほとんどのテレビのコメンテーターは原発推進論者です。
うっかり聞いていると原発反対のように聞えますが、よく聴くと決してそうではない人が多いように思います。

大飯原発の下の断層が何なのかで議論が行われていますが、議論の仕方はとんでもなく馬鹿げています。
活断層であるともないとも言えなのは、当然のことです。
まともな科学者や技術者だったら、それくらいの知性はあるでしょう。
問題は、その可能性がどの程度あるかと言うことですが、少なくとも専門家と言われる人の間で議論が分かれるということは、可能性が高いということですから、その段階でまともな人なら稼動停止を決断すべきです。
青森の東通原発に関しても、馬鹿げた議論が展開されています。
専門家チームの全員一致の見解に、電力会社の経営者や技術者が異を唱えています。
専門家チームも馬鹿にされたものですが、これまでの活動や言動を考えれば、それも仕方がないでしょう。
要するに馬鹿だったのですから。
いずれの原発に関しても、馬鹿同士の議論が続いているのは、結局はお金がからんでいるからでしょう。
問題は、お金ではなく人のいのちなのだという認識は、昨今の専門家族にはほとんどありません。
そもそも学者は、御用学者として生まれた職業ですから、それもまた仕方がないのかもしれません。
しかし、そろそろ生活者の視点での学者が生まれてもいい時期です。

それ以前に、私たち生活者がもっと真剣に学ばなければいけません。
学ぶことも忘れた大人たちを見て、子どもたちはどう思っているのでしょうか。

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■節子への挽歌1945:大日如来のすす落とし

節子
今日はジュンにも来てもらっての大掃除です。
その一環で、節子を守ってくれている大日如来のすす落としをしました。
如来の右側にはキスケ3兄弟が、右側には月光菩薩がいます。
この月光菩薩は、私が好きだった東大寺三月堂の月光菩薩のレプリカです。
大日如来は、スペインタイルをやっている娘のジュンがつくりましたが、眼は家族3人で入れて、お世話になっている宝蔵院のご住職に魂を入れてもらいました。
私は、在宅している時には毎朝、この仏様の前で般若心経を唱えさせてもらっていますので、そのあげ方を見ていてたぶん私の本性を見透かしていることと思います。

Photo_2

今年も余すところ2日になりました。
今年はわが家にも、私にも、いろいろと難事がありましたが、この柔和な大日如来のお加護に支えられて、みんな元気に年を越せそうです。
冬を越せるかどうか危ぶまれていたチビ太も、お医者さんが薬を2か月分も出してくれましたので、もうしばらく大丈夫のようです。
最近は寝たきりチビ太のストレッチ体操もやっていますが、幸せそうです。
来年も大日如来のお加護を念じています。

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■みんなそろって愚民化というかなしい現実

気のせいでしょうか、大飯原発敷地内の断層を調べる原子力規制委員会の専門家チームの発言が変わりだしてきているように思います。
昨夜の官邸前の反原発デモには雨にも関わらず、多くの人たちが集まったようですが、大きな流れは反転してしまいそうで、かなしいです。

政府の原発推進論もかなり表面に出てきましたし、TPP参加の本音も出始めました。
安倍政権は急速に展開していく感じです。

安倍政権に与えられた使命は、「愚民化の推進」だと私は考えています。
前回の安倍政権で行った教育基本法の見直しは、私には恐ろしい予兆でしたが、その張本人がまた蘇ってくるとは思ってもいませんでした。
おぞましい話です。
教育はますます思考しない国民を増やしていくことになりかねません。
学校は教育の場ではなく、飼育の場になるのでしょうか。
しかも、本を読む人も少なくなり、そうした何も考えない人間同士の無意味な痴話話の交換が情報空間を覆いだしています。
実にかなしい話です。

ちなみに、「かなしい」とは、「愛(かな)し」という用法があったように、本来は後ろ向きの言葉ではなく、前に進む言葉だと私は捉えていますが、一応、ここでもそういう思いで使っています。蛇足ながら念のため。

愚民化は急速に進んでいます。
私がかなしまずにあわれむのは、いわゆる「知識人」やリーダーと言われる人たちの愚民化です。
しかし、リーダーが愚かであればそれに従う民が愚かになるのは当然です。
むかし「1億総中流化」という言葉がありましたが、まさにいまは「総愚民化」に向かっています。
すべての人が愚かになれば、愚かという概念はなくなります。
みんなで渡れば恐くないと同じく、みんな愚かになれば賢さが得られるのです。
愚かさが賢さに代置される時代になってきているのかもしれません。

口では原発反対を言い、投票では自民党に投票する。
その矛盾に気づかないほどの愚かさは、賢さにも通じています。
正義や真実を体現するのは、いつの時代も愚かな行為と言われていたことを考えると、愚民化ではなく相変わらずの愚民状態の維持が、安倍首相に与えられた使命かもしれません。
そういう強い役割がなければ、ゾンビのように彼が戻ってくるはずがありません。
天の力も、あまり期待できなくなりました。

人が個人としての主体的な判断力を持ち始めたのは、20世紀も、かなり後半になってからではないかと私は最近思いだしています。
そう考えなければ、歴史に書かれていることがどうしても理解できないからです。

インドで暴行された女性が自殺しました。
不謹慎な言い方ですが、愚民から抜け出す歴史の流れを感じて、少し安堵しています。
日本は、まさに逆行しだしているようには思いますが、
だから実にかなしいのですが。

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2012/12/28

■節子への挽歌1944:聖地を歩くこと

節子
闘病中の節子に洋菓子を送ってきてくれていた鈴木さんが湯島に来ました。
鈴木さんは、インドのアシュラムで修業したこともある、ちょっと現世離れした人です。
サンチャゴ巡礼もしてきました。
サンチャゴといえば、私たちは歩いたことはありませんが、ちょっと節子にも思い出のある巡礼路です。

鈴木さんはいまはある雑誌の副編集長です。
最初は、あの仙人のような鈴木さんがと思っていましたが、もう10年以上続いています。
その間、休暇をとって3年ほどでサンチャゴを踏破したのです。

その鈴木さんに、仕事をやめたらどうするのかと質問しました。
いささか失礼な質問ですが、私には興味のあることなのです。
鈴木さんの答は「歩きたい」でした。
鈴木さんは世界各国を歩いていますが、2つの歩きが心に残っているそうです。
サンチャゴ巡礼路とネパールでのトレッキングです。
いずれの場合も、聖なるものとの交流を感じたようです。
聖なるものとっても、その道や自然環境だけではないようです。
世界各国から集まってくる多様な人が持ち寄ってくる「聖なるもの」に、鈴木さんは魅了されたようです。
聖地は、さまざまな魂が時空を超えて集まるからこそ、聖地なのです。
鈴木さんの感覚がよくわかります。

歩いてどうするの、とあえて愚問をぶつけました。
答は聞くまでもありません。
何かのために歩くのではありません。
歩くことに意味がある。歩くだけでいいのです。
私が思っていた通りの答が鈴木さんから帰ってきました。

私はサンチャゴ巡礼路も四国の巡礼路も歩きたいとは思っていません。
節子が病気になった時には、節子が元気になったら一緒に歩こうと思っていましたが、今はその気はまったくありません。
今の私には、いまここが「聖地」なのです。
正確に言えば、いまここを「聖地」と思えるということです。
あるいは、これまで歩いてきたところが、「聖地」に感じられるのです。
もちろん、いわゆる聖地に立つと、心が大きないのちにつながる感じはします。
時を経た仏像の前で手を合わせると、聖地の入り口を感じます。
しかし、節子のおかげで、いまはどこでも聖地とのつながりを感じられるようになってきました。
大仰に言えば、今の私は、巡礼路を歩いているような気が、時にします。
鈴木さんと話していて、改めてそのことを実感しました。
でも一度くらいは、節子と聖なる巡礼路を歩きたかったと思います。

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2012/12/27

■節子への挽歌1943:繕いのあるセーター

節子
娘たちが節子のクローゼットの整理をしてくれました。
私が、これまでしないように頼んでいたのだそうです。
きちんと言葉で言ったつもりはないのですが、なんとなく娘たちはそう感じていたようです。
今日、ある事がきっかけで、娘たちに整理を頼んだら、そういわれました。

いろんなものが出てきました。
一度も着たことのない服もあったようです。
バッグもたくさん出てきました。
ブランド物はひとつもないので、商品価値はありませんが、友人からもらった手づくりのバッグや節子が作ったバッグもありました。
衣服の中に一つ、私にも見覚えのあるセーターがありました。
レトロ好きのジュンが、いかにも昭和の感じがするといって、自分で着ようかと思い、良く調べたら、いくつか虫食いがあり、それを繕っているのに気がついたというのです。
それこそ昭和レトロだよと勧めましたが、ジュンはちょっとまだ躊躇しています。

このセーターは、私たちが結婚したてのころ、節子が来ていた記憶があります。
節子のファッションセンスは、私には少し問題ありという感じでしたが、このセーターはシンプルなので私好みでした。
それにしても、節子は物持ちがよかったというか、捨てる文化がなかったのか、洋服もバッグもたくさんありました。
困ったものです。
衣服の多くは廃棄し、一部はキロ単位で引き取ってくれる古着屋さんに持っていくそうです。

寝室には、まだ節子のベッドがありますし、節子の鏡台や手紙好きの節子の状差しは、まだそのままなので、部屋の雰囲気はあまり変わってはいませんが、こうして少しずつ節子の残したものが消えていきます。
そして、まもなく、同じように私の残した物もなくなっていくのでしょう。
しかし、夫婦と親子は違います。
私の物は、できるだけ残さないように、生前処分に取りかからなければいけません。
来年は、それが私の最大の課題です。

さて今日はまた昨日よりも寒いです。

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■どうもすっきりしません

どうもすっきりしません。
久しぶりにテレビの報道番組を見たら、安倍政権の原発政策や経済政策に批判的なコメンテーターやキャスターが多いようです。
従来型の公共投資重視の景気対策や原発推進への批判です。
すっきりしないのは、あなたたちがそれを支援したのでしょうという気がするからです。
どうせ言うなら選挙前からきちんと報道しておいてほしかったものです。
みんな詐欺師に見えてなりません。
いまや日本は詐欺大国ではないかと思ってしまいます。
私はホームページで、小泉政権時代にそれを予言していましたが、これほど社会を覆ってしまうとは思ってもいませんでした。

今回の選挙では日本の国民は増税と原発を選んだのですが、そういう状況を生み出したのは、私にはマスコミが大きく寄与したのだろうと思います。
それを非難はしませんが、選挙前と後で、報道姿勢を変えてほしくはありません。
キャスターもコメンテーターも、そもそも「中立的」などということはありえません。
体制になびいたり、権力を批判したりするだけが、その役割ではありません。
しっかりとした見識を持って、情報を選択し、評価すべきです。
いまになって「危機感」を唱えるのではなく、唱えるのであれば、選挙前にしっかりと主張するべきです。
目の前の雇用の危機をちらつかせながら、原発支持に持っていく、これまでのやり方と同じように、景気浮揚が大事だと思わせたのは、どこの誰でしょうか。
それにのった雇用者たちは惨めではありますが、それしか生きる術を学んでこなかったのだから仕方ありません。
しかし、生活に必要なのは景気ではなく、安全です。
どこで日本の国民は、命よりもお金が大切だと飼いならされてしまったのでしょうか。
そして電力の消費者になってしまったわけです。
空気や水よりも、電力とお金が大事になってしまった。

もうひとつすっきりしないのは、未来の党の分党への批判です。
小沢さんと嘉田さんは、選挙目当てで未来の党を結党したことがこれでわかったと、たとえば先ほど医師の鎌田實さんはテレビで語っていました。
鎌田實さんの発言を聴いていて、がっかりしてしまい、テレビを切りました。
ブルータス、おまえもか、です。
それのどこが悪いのか、選挙に勝つために大きな政策で共同戦線を組み、それで失敗したら組み替えるのは、何の問題もないと私には思えます。
それよりも、選挙に大勝した後、原発政策やTPP政策を変えたり、マニフェストを放棄したりするほうが、私には問題です。
鎌田さんは、そんなに原発が大事なのでしょうか。がっかりしました。
原発社会を変えようと、みんな頑張っていたのに、あるいは、いるのに、鎌田さんは原発推進を望んでいるのかとがっかりしました。
人はちょっとした言動に本音が現れます。これまでの信頼が崩れました。
私の判断基準が間違っているのでしょうか。
まあ、その可能性は大いにありますが。

しかし、最近は何もかもすっきりしません。
このブログの読者からも、悪口を浴びせられていますが、そんなことはどうでもいいのですが、事実がしっかりと報道されない日本の社会は実に居心地が悪いです。
30年以上前に予感していた「非情報化社会」になってしまいました。
ようやくテレビのニュースを見る気になったのですが、またしばらくはやめることにしました。
胃腸炎が再発すると良くありませんし。
しかし、これからのテレビは、ニュース以上に私には腹立たしい番組が続きそうです。
困ったものです。

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2012/12/26

■節子への挽歌1942:悲嘆の癒し

節子
今日の寒さはまた格別です。
寒くなると、なぜか節子を思い出します。

死別によって遺された者の動揺や衝撃は、時間の経過とともに静まっていくが、悲しみや寂しさは、むしろ月日とともに、深く澱んで、折にふれては浮かび上がり、消えることはない、と竹内整一さんは書いています。
静まっていくが、消えることはないのです。
最近、改めてそう思います。
まもなく、6回目の新年を迎えようとしているのに、心身の寒さは一向に戻りません。

根源的な意味での「悲嘆の癒し」とは、悲しみを消すのでなく、むしろ悲しみを土壌にして、新しい「生きていく自分」をつくる仕事である、と、柳田邦男さんは『「死の医学」への日記』に書いています。
この種の本は、節子が病気になってからは読めずにいましたが、最近、漸く、読む気力が出てきました。
「遺された者にとって、死が辛く悲しい。しかし、悲しみのなかでこそ、人の心は耕されるのだ」という、同じく柳田邦男さんの言葉も、最近は素直に心に響くようになってきました。
私も、少しずつですが、「悲嘆の癒し」を受けて、心が耕されてきているようです。
人の思いの向こう側も、最近は少し見えるような気がします。
それが生きやすいかどうかはわかりませんが、やさしさは高まっているように思います。
節子がいた頃よりも、もしかしたら「良い人」になってきているかもしれません。
悲嘆は、最初は自分だけの悲嘆ですが、深く沈むにつれて、他者の悲嘆も引き受けていきます。
他者の悲嘆を引き受けることで、自らの悲嘆を相対化していく。
グリーフケアは、そうした「悲嘆の癒し」なのかもしれません。
そして、やさしくなれます。
心は平安になっていきます。
しかし、寒さだけはやわらぎません。

今日もまた、あまりに寒く、まだ「新しく生きていく自分」の芽を出せずにいます。
寒さに凍えなければいいのですが。
それにしても、6回目の冬は寒すぎますね。

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2012/12/25

■原発よりも景気という風潮

今年の売れ筋のクリスマスケーキは、昨年よりも一回り大きなケーキだったそうです。
また来年のおせち料理セットも、今年のものよりもまた、一段と豪華になっているようです。
日本はますます贅沢な方向に動いているとしか思えませんが、その一方で、みんな「景気がよくなってほしい」といいます。
テレビで、ある有名人が、「景気がよくなるとは要するに給料が増えることだ」と繰り返し強調していましたが、みんなどこまで贅沢をしたいのでしょうか。

私は月額15万円強の年金で、豊かに暮らしています。
友人は、15万円ではやっていけないだろうといいますが、そんなことはありません。
冠婚葬祭などを別にすれば、十分やっていけます。
クリスマスケーキも娘の手づくりでしたが、美味しいケーキでしたし、おせちも娘たちがそれなりに用意してくれます。
会社を経営していますが、この10年ほど、会社から給与も報酬をもらったことはありません。
時に仕事をしてお金をもらうことはありますが、会社のオフィスを維持し活動を持続するために、すべてはつぎ込みます。
もちろんそれでも足りませんが、足りない部分は、不思議なことに友人知人がなにかと寄付してくれたりしています。
私はふだんは財布もお金もあまり持っていませんが、基本的にお金を使うことはありませんから、不便はしません。
時に、同情した友人が高い料理をご馳走してくれますが、高いからと言っておいしいものとは限らないなと思うだけです。
娘が、穴のあいた靴下ははかないようにというので仕方なく捨てますが、穴があいたからといって特に気にはなりません。
そんなふうに、実に質素に、そして日本の経済成長には寄与しない生き方をしていますが、貧しいと思ったことはありません。

そういう生活をしている立場から言えば、昨今の経済はもう十分に過剰消費です。
むしろ無駄が多すぎます。
仕事がないとみんな言いますが、私には山のように仕事があります。
もちろんお金をもらえるわけではありませんが、自らの人生は豊かになりますから、十分、報われています。
みんなが求めているのは、仕事ではなくて、お金なんだろうと私は思います。
今の人たちが、安全や生活よりも、お金を大事にしているのが、私には全く理解できません。
お金があっても、原発と共存するような生き方は、私には理解できないのですが、みんながそれがいいというのであれば仕方ありません。
わが家の庭の放射線汚染度はかなり高いですが、誰にも文句は言えません。
お金が好きな人たちの社会の、私も一員なのですから。

原発よりも景気という現在の風潮が理解できませんが、言い換えれば、景気よりも原発という私の考えは、多くに人には理解されないのでしょうね。
困ったものです。

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■節子への挽歌1941:マジックワード

節子
先日、野路さんのご主人から電話がありました。
野路さんが散歩に出かけていると聞いて、ついつい節子との散歩のことを思い出したと言ったら、思い出させてしまいすみませんでした、と言われました。
思い出させることは、謝ることではないのですが、こうしたやりとりは時々あります。
愛する人を見送った人にとっての、最高の喜びは「思い出すこと」なのです。
当事者でなければ、なかなか気づかないかもしれませんが。
いや、当事者もさまざまなかもしれません。
しかし、私にとっては、節子を思いださせられることはうれしいことです。
忘れることこそ、悲しいことなのです。

そうはいっても、5年もたつと節子の話題はそうは出てきません。
家族の中では、いまでも毎日のように節子の名前は出てきますが、家の外で「節子」の話になることは、まずありません。
それは当然のことでしょう。
それぞれに自分たちの世界があり、そこにはたぶん、その人にとっての「節子」が存在しているでしょうが、私がそれを話題にすることはないからです。
思い出すのは、家族の役割なのです。
その役割は、節子の場合はかなり守られています。
まあ時に、節子としては怒りたくなるような名前の出し方もありますが。
節子の名前は、わが家では何かをする時、あるいはしない時の「口実」に使われることが多いのです。

今日はクリスマス。
節子だったらケーキを作るだろうなと娘に言ったら、ケーキを作ってくれました。
わが家では、「節子」は、一種のマジックワードなのです。
「死せる孔明生ける中達を走らす」とまではいきませんが。

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2012/12/24

■東京新聞を購読してみて感じたこと

また時評編を書かずにいます。
どうも書く気が出てきません。
困ったものです。
ならし運転に、まずは軽い話題からです。

東京新聞を購読してみました。
朝日新聞と比べると明らかに内容に違いがあります。
その主張や報道の視点は、たしかに馴染めます。
しかし、やはりどうも私には物足らなさがあります。
時代状況がむしろ見えにくくなってしまったような気がします。
なぜかというと、東京新聞の記事は「主張」が多いからです。
繰り返しますが、その主張はとても馴染めます。
また取り上げることも、朝日とは違い、新しい気づきを与えてくれることが多いです。
でも、どこか感覚的に違和感があります。
主張が多すぎる割には、事実の報道が少ないような気がするのです。

報道姿勢に違和感がある朝日新聞のほうが、私には講読する意味があると気づきました。
問題意識を刺激してくれると共に、主張ではない事実を提供してくれるからです。

1月からまた朝日新聞だけにしようと思います。
ちなみに、東京新聞がよかったのは、頁数が少なかったことです。
一番馴染めなかったのは、紙面のデザインでした。

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■節子への挽歌1940:景色の変化

節子
家の窓から近くの斜面林の大きな木々が見えます。
風にゆっくりとそよぐ木々の間を、鳥が時々飛び回っています。
まだ4時を少しまわったばかりなのに、陽を受けて、とても心があたたかくなるような、きれいな色を見せています。
しかも、その色合いが刻々と変化していきます。
音もなく静かで、その色合いの移り変わりにしばし見とれていました。
こんなにゆっくりと、その一群の木々を見ていたのは久しぶりです。
いま4時半近くですが、急に夕映えの暖色系は後退し、全体が黒く沈みだしました、
その変化は急速です。
見ているだけで、心身が冷えていきそうです。

わが家は高台なので、リビングからも周辺の景色が少し見えます。
いつもはあまり気にしていないのですが、今日は少し時間をもてあまして、リビングで見るでもなく外の景色を見ていたのです。
隣の大きな屋敷の主人が亡くなったために、来年は、その大きな家の庭に何軒かの家が建つかもしれません。
ですから、この風景も、そのうちに見えなくなるかもしれません。
そう思うと、何かしみじみとその夕映えの風景を心に刻みたくなったのですが、夕陽がかげったせいか、なにやら冷え冷えとした風景に変わってしまいました。

普段はあまり意識していませんが、わが家から見える景色もいろいろとあります。
しかし、景色とは何でしょうか。
そこにあるものでしょうか、それとも見る人が創りだすものでしょうか。
おそらく見る人によって創りだされるものでしょう。
そして見る人によって、景色はまったく違ったように見えてくるのです。
いまもリビングでパソコンにこの文章を打ち込みながら、横を見ると30分ほど前まで見ていた風景と同じ風景が見えていますが、その景色はまったく違います。
心が冷えるような。とてもさびしく悲しい景色が、そこにあります。

たとえそこにあったとしても、意識しなければないのと同じです。
そして意識によって、その意味は変わります。
伴侶はどうでしょうか。
伴侶は「空気のような存在」と言う人がいます。
私も、そうした感覚を節子に持っていました。
その意味合いは、人によって違うでしょうが、私の場合は「かけがえのない不可欠の存在」という意味も含意していました。
もしそうなら、節子がいなくなったら、もう生きつづけられないのではないかと思ったこともあります。
しかし、節子を見送ってから5年以上経ちますが、私はまだ生きています。
つまり、節子はまだ存在しているのです。
見えないだけかもしれません。
景色がそうであるように、節子もまた、いまなお私の隣にいるのかもしれません。
見る人が景色を創りだすように、節子もまた、私が創りださなければいけないのです。

外はもうどんよりと、そして寒々としてきました。
こうして夜の帳が全てを消し去ってしまいますが、朝になればまた、景色は生き生きと輝きだします。
節子もそうだといいのですが。
いや、節子もそうなのかもしれません。

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2012/12/23

■節子への挽歌1939:彼岸と此岸を往来できる人

節子
年末になるといろんな人から電話が来ます。
節子の知っている人が少なくありませんが、一番元気なのは大宰府の加野さんです。
もう80歳を超えているはずですが、実に元気です。
手作りの久留米絣を残すのが自分の使命だから、まだ死ぬわけにはいかないといっています。
ともかくエネルギッシュです。
この数年、お会いできずにいますが、以前書いたように、大日寺の庄崎さんを介して、もしかしたら節子とは毎月話をしているかもしれません。

今日のNHKの大河ドラマ「平清盛」には、死ぬ前後に清盛が西行に乗り移り、遺された者たちに働きかけをする場面がたくさん出てきました。
彼岸と此岸の往来は、最近でこそ難しくなりましたが、清盛の時代にはまだそう難しいことではなかったのかもしれません。
いまもまだ、庄崎さんのように、彼岸と此岸を往来できる人がいても不思議ではありません。そんな気がします。

もしかしたら、加野さんもそういう人かもしれません。
加野さんから江戸時代の石田梅岩の夢を見た話を聞いたことがあります。
その夢で石田梅岩のことを知り、本を読み、いまは京都で暮らしているその子孫の方にお会いに言ったそうです。
加野さんは、そういう不思議な方です。
節子も知っている加野さんの娘さんも不思議な人でした。
私が大宰府の加野さんのお宅をはじめて訪ねたのは、その娘さんの不思議な夢の話が縁でした。
その時は、節子はすでに発病していた時で、私一人で行きました。
いま思えば、無理をしてでも、節子と一緒に行けばよかったと思います。
もしかしたら、流れが変わったかもしれません。
しかし、その時には、すでに加野さんの娘さんは彼岸に旅立ってしまっていました。

加野さんの娘さんが亡くなる少し前から、福岡に戻った加野さんとのお付き合いが途絶えてしまっていました。
どういう契機でか思い出せませんが、なぜか加野さんのところを訪問しようと思ったわけです。
その前後のことが錯綜していて、なぜか思い出せません。
私のホームページには毎週、私の活動記録が掲載されています。
それを読んでみたのですが、なぜか私の記憶とは時間軸がかなり違っているのです。

しかし、いずれにろ、大宰府の駅前で花を買って、加野さんの家にお伺いしたことはたしかです。
なにしろ、私の人生において、花輪を買ったのは、この時が最初であり最後です。
手配は娘がしておいてくれたのですが。
そして、それ以来、またお付き合いが始まりました。
加野さんは、節子の病気のことを知り、その後、いろいろと心配りをしてくれましたが、もう少し早く私が状況を正確に伝えていれば、奇跡が起こったかもしれません。
しかし、その時には、そんなことは頭に一切浮かばなかったのです。
そして、まさか、加野さんが彼岸と此岸を往来できる人だとは思ってもいなかったのです。
それに気づかなかったのもまた、定めです。

来年は、福岡に行こうと思います。
加野さんの活動の主舞台が彼岸に移ってしまっては、困りますので。

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2012/12/22

■節子への挽歌1938:年末と言う気がしません

節子
今年も残すところ数日になりました。
ユカが入院したこともあって、今年は年越しの準備が手付かずになっています。
庭の植木の刈り込みもやる予定でしたが、ユカの入院を口実に年明けのばしてしまいました。
大掃除も手抜きになりそうです。
それはともかく、年末という感じがまったくないのです。
困ったものです。

節子もジュンもいた頃の年末年始は、いつもにぎやかでした。
両親がいた頃はもっとにぎやかで、私も買い物にまで借り出されたものです。
年末年始は、私にとっても家事に引きずりださえる忙しい時でした。
しかし、両親がいなくなり、節子がいなくなり、そしてジュンがいなくなるにつれて、年末年始もさほど変わったことはなくなってきました。
おせち料理も簡単になり、来客は少なくなり、家族の人数とともに年末年始もとくにハレの日ではなくなってきています。
いささかさびしい気もしますが、それもまた人生の当然の流れなのでしょう。

最近は年末年始に、読書さえできるようになりました。
節子がいるころには考えられないことです。
しかし、今年はあんまり読書する気分になりそうもありません。
なんとなくそんな気がします。

節子がいなくなってからの6回目の年越えですが、年末のせわしなさもなければ、年の終わりの感激も起きてきません。
年を越えるということの意味がなくなってしまったのかかもしれません。
それが少しさびしい気がします。


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2012/12/21

■節子への挽歌1937:べったり夫婦

節子
東京新聞のコラムに、白洲夫妻のことに言及したコラムがありました。
白洲夫妻はべったりした関係ではなく、それぞれが自由に生きていたというようなことが書かれていました。
たしかに、白洲正子さんも白洲次郎さんも、それぞれの世界をしっかりと生きた人でした。

それを読んで、私たち夫婦は「べったりした関係」だっただろうかと考えました。
この挽歌を読んでいる人には、たぶん「べったり夫婦」とうつっているかもしれません。
私自身、そう思っている風があります。
しかし果たしてそうだったかどうか。

私たちは、お互いの生き方を尊重し、基本的には干渉しあうことはありませんでした。
もちろん相手の行動に意見を言うことは多かったのですが、「干渉」とはお互いに意識していなかったと思います。
節子の行動に関して、私が反対したこともないわけではありません。
それは、危険性を感じた場合ですが、だからといって、節子が予定を変えたことはありませんでした。
節子は友人と旅行に行ったり、好きな習いごとをしたりしていました。
むしろ私のほうが、一人で、あるいは友人と旅行に行くことは少なかったのですが、それは私の個人的好みの問題です。
私は、そもそも旅行が好きではないのです。
しかし、その点では外部から「女房べったり」とも見えたかもしれません。
節子でさえ、時にそう言っていました。
あなたももう少し他の人と旅行にでも行ったら、と。
女性との付き合いに関しても、節子は、私だけではなく、たまには誰かと付き合ったらと言うほどでした。
もっともそれは、私が決してそんなことをしないだろうと思っていたからかもしれません、

それでも節子が発病してからは、間違いなく「べったり夫婦」になりました。
一緒に過ごした時間が多かったというよりも、意識において、完全に「べったり」だったのは間違いありません。
その4年半は、2人だけの世界に生きているといってもよかったかもしれません。
節子が幼馴染みや友人たちと会う時にも、私は同行しました。
そのおかげで、節子のことを私はさらによく知ることができましたし、もし節子が元気でいつづけられていたら、家族付き合いも続いたかもしれません。

病気になる前の私たちは、実はそれほど「べったり夫婦」ではなかったように思います。
少なくとも、結婚した当時の私の夫婦観は、それぞれの世界をしっかり持った関係でした。
節子はむしろそれに戸惑っていました。
しかし、いつの間にか、その夫婦観は変わってしまいました。
次第に私は、節子にべったりと依存するスタイルになってしまったのです。
逆に、節子は自立する方向に変わりました。
なぜそうなってしまったのか。
女性にはやはり勝てません。
節子にすっかり飼育されてしまったのでしょうか。
いやはや困ったものです。

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2012/12/20

■節子への挽歌1936:あったかい関係

節子
入院していたユカが退院しました。
私につづいてユカ、そしてもしかしたら、その次はチビ太かもしれません。
最近どうも元気がありません。
お医者さんからは2年前に、引導を渡されてはいるのですが。
心配の種は尽きません。

昨日の忘年会でもいろいろと心配事が交わされました。
まあ、この歳になると、心配事がないのがおかしいわけですが、それぞれに言葉にはなかなかできない心配事があるようです。
もっとも、心配事があることは決して悪いばかりではありません。
それが一種の緊張感と表情を人生に与えてくれるからです。
それに心配事は、言葉にした途端に、自分のものとは違うものになりかねません。
そのせいもあって、なんとなく分かり合いながら、なんとなく気遣いながら、深くはお互いに突っ込まない、あいまいなやりとりが続きます。
もっとも、表面上の言葉のやり取りは、子ども時代さながらに激しいのですが、そこにはあったかい空気が流れています。
幼馴染の場とは、とても不思議な場です。
言葉にしなくても相通ずるところがあります。
それは夫婦の間の空気と、少し似ているかもしれません。

ここにくるとなんだか落ち着いて安心する、と別の忘年会を止めてまで、やってきた一人が言いました。
すかさず、じゃ、いつもは安心せずに緊張しているのか、と憎まれ口が出てきます。
もう一人が、別に普段は付き合っていないのに、年に1度会わないと「胸の痞え」がとれないと言いました。
あんまり付き合いたくない関係だもんな、とこれも憎まれ口。
「胸の痞え」ってなんなのか、よくわかりませんが、彼は毎年、そういうのです。
それに、彼は盛んに「おれたちは付き合いなどしていないし」と口に出します。
たしかにみんな「付き合っている」という感覚はありません。

普段はそこにいなくても、どこかにいるから安心だというわけです。
さてそこで、ついつい節子もそうだなと思うわけです。
節子は今は普段は私の隣にはいませんが、だからと言って、いなくなったという感覚はありません。
普段会えなくてもいいという、幼馴染の感覚で言えば、同じことかもしれません。

人は、一度、誰かを愛すると、そして人生を深くシェアすると、それが永久に続くのかもしれません。
隣にいなくてもさびしくないとは言いませんが、隣にいるかどうかは、もしかしたら大事なことではないのかもしれません。
もちろん隣にいまもいて欲しいですが。

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2012/12/19

■節子への挽歌1935:悪がきどもとの忘年会

節子
今年も忘年会の季節ですが、なかなかまだ参加する気になりません。
どこかで無意識に、忘年会のお誘いを断れるように、なにかと用事をいれてしまっているようで、今のところまだ一度も忘年会には参加していません。
それに私があまり忘年会を好まなくなっているのを知ってか、お誘いも減っています。
しかし、今日は忘年会です。
私の都合に合わせて日程を決められてしまったので、参加しないわけには行きません。
しかし、その後、幸か不幸か、用事ができてしまったのです。
さて悩むところです。
用事をとるか、忘年会をとるか。
で、最初に決めた忘年会を選択することにしてしまいました。
それでもう一つの集まりは年明けにしてもらいました。

忘年会といっても、小学校時代の悪がきの集まりです。
私はあんまり付き合いたくない連中ですが、なぜか付き合ってしまいます。
みんなも、修などとは付き合いたくないといっているくせに、やってきます。
まあ幼馴染などというのは、そんなものなのでしょう。
それに会っても面白いことなどありません。
私は、過去の話と病気の話が嫌いなのです。
孫もいないので、孫の話も参加できません。
では何を話すのか。
話すことなど、ないわけです。
だから忘年会は嫌いです。

今日集まるメンバーはみんな節子も知っています。
サロンにも何回か来ていますし、そこで勝手な私の昔話もしているはずです。

今日は私のことを思いやって、湯島にまで来てくれての忘年会です。
私は下戸ですが、彼らはみんな酒豪ですので、飲みだすと荒れかねません。
以前、やはり近くの懐石料理屋さんに行ったのですが、あまりに大騒ぎするので、そのお店にはその後行きづらくなったほどです。
まあみんなが集まると、小学校時代に戻ってしまった気分になって、とんでもないことになるわけです。
まともなのは私だけです。
というか、みんなそれぞれにそう思っていますので、始末が悪いのです。

さて、そろそろ行きましょう。
よほど暇なのか、その一人は始まる1時間前なのに、もう着いたので早く来いと電話がかかってきました。
早く来ないと酔っ払って、どうなるかわからないというのです。
ほんとに蹴飛ばしてやりたい気分です。

節子
まだこの悪がき連中と縁が切れないでいます。
困ったものです。
友達は選ばないといけません。
彼らとの付き合いは、現世だけにしたいものです。

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2012/12/18

■節子への挽歌1934:「すばらしく豊かな時間」

節子
先月、節子の友だちの野路さんからリンゴが送られてきました。
すぐにお礼の電話をしたかったのですが、あいにく胃腸炎でダウンしていて、電話をしないままになっていました。
その後、何回か電話したのですが、ご不在でした。
野路さんは前にも書きましたが、いまリハビリ中で、たぶん夫婦で散歩に行っているか病院かなと思いながらも、うまくタイミングが合わずに、今日になってしまいました。
幸いに今日、電話したら、つながりました。
しかし、野路さんご本人ではなくて、娘さんでした。
野路さんご夫妻は、やはり散歩に出かけていました。

野路さんの記憶もすこしずつ回復されているようです。
とてもうれしい限りです。
娘さんと話しながら、ゆっくりと散歩している、幸せそうな野路夫妻の様子が目に浮かんできました。
私も病気になった節子と一緒によく散歩しましたが、その歩きのテンポは想像もしていなかったほどの「ゆっくりさ」でした。
最初はついつい私だけ足を速めがちでしたが、節子のリズムに合わせるようになると、そのゆっくりした歩調が、実に快くなってきました。
それはとても不思議な時間でした。
たくさんの人が私たちを追い越していく。
時間がまったく違うのです。もちろん風景も。
あの快感は、なんだったのでしょうか。
しかしおそらくもう二度と味わうことはないでしょう、
そんなことを思い出していました。

野路さんの娘さんは、野路さんのことに触れたこの挽歌を前に見つけて、読ませてもらったと話してくれました。
どの記事でしょうか。でも目にとめてもらってうれしいです。

野路さんご夫妻は、きっとすばらしく豊かな時間を過ごされているのでしょう。
そう思います。

人はみんな、「すばらしく豊かな時間」に恵まれています。
それに気づくかどうか、それが人生を豊かにするかどうかの分かれ目かもしれません。
節子と、ゆっくりと散歩した、あの時も、「すばらしく豊かな時間」だったのです。
そして、節子を見送ってから、毎日、挽歌を書ける今も、「すばらしく豊かな時間」なのです。
私も、「すばらしく豊かな時間」をもっと楽しまなければいけません。
しかし、なかなかそう思えないのは、なぜでしょうか。
人の欲深さは、際限がありません。

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■現実をどう解釈するか

今回の選挙結果に関するさまざまな分析結果などが出ていますが、いつも気になることがあります。
このブログでも何回か書いていますが、どこに視座を置いて現実をみるか、そしてどう問題を設定するかで、現実の捉え方はまったく違ってきます。

マスコミも多くの識者も、今回の選挙を「自民と民主の二大政党」のフレームで捉えていましたが、前にも書いたように、それはまったくの幻想でした。
民主党は、実はすでに解体され、野田総理を代表とする現在の民主党は、3年前の民主党ではありません。
3年前の民主党のコアバリューは、小沢さんと鳩山さんのマニフェストでした。
ですから、小沢さんが離党した時に、「元祖民主党」または「本家民主党」を名乗るべきだったのです。
残った民主党党員は、民主党という「権威」に依存した烏合の衆でしかありませんでした。
私はそういう認識で、今回の選挙で民主党は全くなくなるだろうと思っていましたから、50人を超える人が当選したことに、むしろ驚きを感じました。

「第3極」という呼び方も、二大政党の枠組みで考えている発想です。
石原さんが、「第3極」ではまずいと発言しましたが、全くその通りで、「第3極」を目指す政党は、私には存在価値を感じさせません。
「第3極」もまた、現実をゆがめる言葉の一つです。

今朝の東京新聞の一面の大見出しは、「自民 民意薄い圧勝」と書かれています。
今回の自民党圧勝は、民意を受けたものではないという人が多いですが、私は民意をしっかりと受けたものだと思っています。
たしかに、現在の小選挙区制度の元では、昨今の投機経済と同じく「レバレッジ効果」があるのですが、だからと言って、自民圧勝の結果を制度のせいにするのはおかしな話です。
この風潮もまた、昨今の風潮です。
悪いのはみんな制度のせいで、関係者は悪くない。
あれだけの悲惨な結果を起こした福島原発事故でさえ、政府の事故調査委員会は、そう言いのけました。
委員に名前を連ねている有名な人たちの小賢しさを呪いたくなります。
私の友人だったら、付き合いはやめるでしょう。
また言葉が走ってしまいました。これだから小人は困ります。反省。

今回の自民圧勝は、まさに民意そのものです。
口でなんと言おうと、みんな原発に懲りていないのです。
節電もしていなければ、浪費生活もやめていない。
政治家の横暴にも懲りていない。
官僚支配にもアメリカ従属にも、反対ではないのです。
そうでなければ、投票率もこんなに低いわけはないし、原発に反対なら、少しぐらいの脅しに乗ることなく自己主張したはずです。
自民圧勝をもたらしたのは、まさに私たちの民意なのです。
そこから考え出さなければ、現実は変わりません。

小賢しい議論はやめましょう。
多くの国民が、自民党を選び、決まらない政治よりも決められる政治を選んだのです。
時間をかけることの意味を忘れてしまったのです。
カエルたちと同じです。
カエルの分際で、小賢しい言い逃れはやめましょう。
ちなみに、私が取り組んでいるコムケア活動のシンボルは、ケアップくんというカエルですが、どうも私がモデルと言う話もあります。
私も典型的なカエル人なのかもしれません。
困ったものですが。

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■節子への挽歌1933:やる気ボタン

節子
昨日も3人の人が湯島に来ました。
そのうちのお2人は、それぞれ新潟、青森から東京に来たついでに寄ってくれたのです。
もう一人は、韓国からの留学生の金さんです。
金さんは10分でもいいからと言うので、なにごとかと思っていたら、クリスマスのプレゼントでした。
私の好きなモカ珈琲を持ってきてくれたのです。

年末になるといろんな人が会いに来てくれます。うれしい限りです。
でもなぜわざわざ湯島に寄ってくれるのでしょうか。
私を気遣ってのことかもしれませんが、どうもそればかりではないのです。
それで、いささかの自慢話を書くことにしました。

金さんから以前、メールをもらったことがあります。
そこにこんなことが書かれていたのです。

佐藤さんとの会話で自分もやる気も出てきたのですが、佐々木お父さんも佐藤さんとお会いする度にやる気ボタンを押されるそうですね。
佐々木お父さんというのは、金さんの「日本のお父さん」の、この挽歌にも時々登場する佐々木さんです。
ところで、金さんは「やる気ボタン」と書いてくれました。
私と会うと、やる気ボタンが押される。
これは、私がずっと目指している生き方です。

昨年でしょうか、ネットワークささえあいの事務局長の福山さんから、「佐藤さんは人と会っている時、何を考えていますか」と突然に訊かれたことがあります。
即座に、答が自然と出ました。
「この人のために何ができるか、を考えています」と。

これが私の生き方でしたが、節子を見送った後しばらく、それを忘れていたことがありました。
そんな余裕がなくなっていたというよりも、どこにもっていけばいいかわからない、怒りのようなもので私の心身があふれていたのです。
そこから漸くまた抜け出せたのです。
金さんのメールを読んで、それに気づきました。

しかし問題は、最近、自分の「やる気ボタン」を押してくれる人がいないことでした。
そのせいか、先日、金さんと佐々木さんがやってきた時に、ついつい弱音をはいてしまったようです。
もしかしたら、それを心配して金さんはエールを送ってくれたのかもしれません。

同封されていたクリスマスカードに、こんなことが書かれていました。

佐藤さんがなさっている仕事はすぐには結果が出なくても当然なものなので、元気を出してください。来年もエネルギッシュな佐藤さんに会い、刺激を受けるのを楽しみにしております。
私も、どうやら「やる気ボタン」を押す立場から、押される立場へと移る時期に来たようです。
しかし来年は、もっと自らの元気を取り戻さなければいけません。
節子がいなくても、それができるようにならないといけません。

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2012/12/17

■節子への挽歌1932:烈しい悲しみ

節子
節子が、死を恐れていたという記憶がまったくないのは、考えてみると不思議なことです。
節子が悲しんだのは、私たちとの別れでした。
だから「恐れ」の感覚はなく、「悲しさ」の感覚だったのです。
節子は、死に対して、実に淡々としていました。

「死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去ることができない」というようなことを、小林秀雄は、本居宣長の死の「かなしみ」を論ずる中で、書いているそうです。
しかし、「烈しい悲しみ」を持つのは生者よりも死者と言うべきでしょう。
なぜなら、死者はすべての生者との別れをしなければいけないからです。
しかも、死者は誰ともその悲しみをシェアできないのです。

小林秀雄の視点は、死者にではなく、生者にしかありません。
死者の視点に立てば、「生者は、死者に烈しい悲しみを与えなければ、死者をこの世から旅立たせられない」ということになるでしょうか。
しかし、この文章は、明らかに間違っています。
死者を悲しませることなく旅立たせることができるからです。
たくさんの人に看取られながら、天寿を全うする場合はそのひとつです。
だとしたら、「死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出来ない」というのも、また間違いかもしれません。
むしろ、そうした思いの呪縛から解き放たれることが、死者にも遺される生者にも大切なのかもしれません。
たしかに、愛する人を見送った後に襲ってくる烈しい悲しみはあります。
しかし、それは、遺された生者を救うためかもしれません。
悲しみの中で、死者を思い続けられる力を育てられるからです。
そして、その悲しみこそが、死者とのつながりを守ってくれるのです。
烈しい悲しみに曝された後、そのことに気づきます。

人の感情は、実にすばらしく仕組まれています。
悲しみもまた幸せに通じています。
烈しい悲しみは、人の世界を豊かにしてくれるものでもあります。

最近、死の豊かさが、少しわかってきたような気がします。
すべての人が、「死」においてつながっていることも。

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■節子への挽歌1931:「気にしてくれる個人」の存在

節子
今年の初めに放映されたETV特集『花を奉る 石牟礼道子の世界』を観ました。
録画していたのですが、なかなか観る気になれませんでした。
石牟礼道子さんの「苦界浄土」を最初に読んだ時の衝撃は忘れられません。
節子と一緒に水俣に行く機会はつくれませんでしたが、いつか行って見たいところのひとつでした。

2つの言葉が気になりました。
「悩んだほうがいい」と「気にしてくれる人がいると幸せ」という言葉です。
とても共感できるからです。

悩みのない人生がいいと言う人が多いかもしれません。
しかし私は最近、むしろ悩みこそが豊かさの証ではないかと思うようになってきました。
最近、私は悩みが増え続けています。
節子がいた頃は、悩みはすべて節子に預けてしまっていたのかもしれません。
あるいは節子と一緒だったので、悩みが悩みとして意識されていなかったのかもしれません。
悩みは、シェアすると悩みではなくなることがあるからです。
しかし、節子がいなくなってからしばらくして、さまざまな悩みが襲ってきました。
よく節子の位牌に向かって、節子は悩みがなくていいね、と話しかけていたものです。
しかし最近は、そうした悩みもまた、人生を豊かにしてくれるもののような気がしてきました。
ですから、石牟礼さんの「悩んだほうがいい」という言葉が、腑に落ちたのです。

水俣病に苦しむ人たちはまだ大勢います。
石牟礼さんは、施設で生活している水俣病を背負った人たちに会いに行きます。
彼らもまた、石牟礼さんを覚えていてくれましたが、その後、石牟礼さんがしみじみと、「社会からの目だけではなく、気にしてくれる個人がいると幸せ」だというのです。
大切なのは、気にしてくれる個人がいること。
石牟礼さんは、気にしている個人として、生きつづけているわけです。
事情は違いますが、そのことがいかに大切かを私は最近痛感します。
生きている人においてもそうでしょうが、死者もまた同じです。
あるいは、死者と共にある者にとっても、とても大切なのです。
私もまた、「気にしてくれる個人」である生き方を大切にしています。

石牟礼さんは、多くの人が悩みから逃げ、誰かを気にする余裕もなくなってきている現代の風潮を憂いているのです。
そのことの大切さを、私もようやくわかってきたところなので、石牟礼さんの言葉はとても心を動かされました。

花を奉るように、石牟礼さんはゆっくりと生きています。
その生き方が、輝いて感じました。

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■今回の選挙の構図

昨日の選挙結果は予想以上の自民党圧勝でした。
夕方の8時に結果報道が始まった途端に、自民圧勝が報じられ、テレビを見続ける気もなく、テレビを切って昨夜は読書でした。
そのことをフェイスブックに書いておいたら、今朝、それへの反応がたくさんありました。
同じようにテレビを切ってしまった人も何人かいました。

しかし、どうしてこんなことになったのか。
ある程度、想定していたことですが、ここまでとは思ってはいませんでした。
このブログでは何回か書きましたが、民主党はすでに瓦礫化していたにもかかわらず、マスコミは相変わらずの自民か民主かという二大政党構図を基本にしていましたから、政治のためには時間を割かない多くの日本国民は自民党に投票するか棄権したのだろうと思います。

自民党が勝ったのではなく、民主党が負けたのだという人が多いですが、その捉え方にこそ問題があるように思います。
今回の選挙の構図は、自民党や民主党(今の民主党は自民党の派閥的存在です)という従来型の政党に対する新しい政党による挑戦(言い換えれば二大政党制への挑戦)と捉えていますが、結局は新しい政党が自民党に負けたと考えています。
まだ機が熟していなかったのでしょうね。
というよりも、これまで10年かけてつくりあげてきた、小選挙区制と二大政党制という、実質的には一党支配構造体制が出来上がったということかもしれません。
それを壊すのは、政治の主導権を生活者に取り戻すことですが、あれほど盛り上がり持続している官邸前のデモのエネルギーはどうしてしまったのか。
どうも私は過大評価してしまっていたようです。
多くの国民は、やはり生活よりも経済、安らぎよりも利便さを選んだようです。
私には腐った根性のように思いますが、かくいう私も同じような存在なのでしょう。

なにやら気持ちが沈んでいますが、ある友人は、
「佐藤サン、新しい政治活動を始めたいと思っています。そのためにはこの結果は戦いやすい。頑張ります」
と書いてきてくれました。
たしかに、社会はそんなに簡単には変わりません。
60年スパンで考えろと昔、水俣の吉井市長に言われたことがあります。
それ以来、私もそう考えているのですが、今回の選挙にはかなり思いこみが強いのです。
せっかく脱原発によって日本が世界の平和に大きく寄与できる好機を、また失ってしまいました。
放射線汚染は、これからも続くでしょう。
そう思うと、なにか取り返しのつかない結果のような気がしています。
しかし、もっと長いスパンで考えなければいけないのでしょう。
新しい政治活動を始める友人を応援しようと思います。

それにしても、フェイスブックをみていると、こうしたこととは無関係な。平和の書き込みが多いです。
そのことに私は一番の驚きを感じています。

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2012/12/16

■節子への挽歌1930:一人の朝食

節子
今日は久しぶりに一人で朝食をしました。
ユカが入院しているのと、チビ太は、相変わらず熟睡していますので。
私は一人で食事をするのがあまり好きではありません。
昼食などは一人だとつい食べ忘れます。
それで節子は昔はお弁当を作ってくれました。
お弁当だと一人ではないような気がするからです。

今日はとても良い天気です。
太陽がまぶしいです。
洗濯までしてしまいました。
もっとも干す時に庭に1枚落としてしまいましたので、やり直しもありましたが。

天気が良いと気分も明るくなります。
そらからいろんなものがやってくるような気がします。
それに昨日とは大違いで、とてもあったかです。
ここしばらくどうも気が沈みがちで、電話もできずにいましたが、気になっていた数人の人たちに電話をさせてもらいました。
みんな同世代の人ですが、それぞれにやはりいろんなことに見舞われています。
人生もこの歳になると、そうシンプルではありません。
喜怒哀楽の波にさらされているのです。
それを豊かな人生と思えればいいのですが、実際にその立場に置かれるとそうも思えないものです。

気持ちは晴れてきていますが、どうもまだ仕事にまでは気が向きません。
今日は、ここしばらくずっと放置していた家の方付けを少しやってみようかと思います。
たぶんすぐに止めたくなりそうですが、がんばってみます。
家事というのは、やはり「誰かがいて」こそできるものですね。
私一人だと、まあ、このままでいいか、食事もお風呂も省略でいいかと思いがちです。
実に困ったものですが。

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■節子への挽歌1929:節子がいたら選挙結果をどう思うでしょうか

節子
どうにもやりきれない気分です。
この気分を分かち合う人がいないのがつらいです。

何がやりきれないかといえば、今日の衆議院選挙の結果です。
午後8時に結果報道が始まりましたが、自民党のとんでもないほどの圧勝です。
まあ結果は最初からわかっていました。
実体のない政党に成り果てていた民主党と自民党の対立構図をマスコミが作り出していたからです。
民主党の議員も、その幻想から抜け出せませんでした。
政治に対してほとんど時間を割かないほとんどの日本国民は、最初から答のわかっている対立構図を押し付けられて、こちらがだめならあちら、あちらがだめならこちらというふうに、今回も振り回されていたのです。
まあそれはそれとして、しかし、実にやりきれない気分です。
節子がいたらさぞ嘆くでしょう。
いや節子なら、私のこのやりきれなさを受け止めてくれるでしょう。

私たちは、選挙の時にはよく話し合いましたが、節子は私よりも「生活的」でしたので、ある意味でラディカルでした。
必ずしも同じ政党や立候補者を支持していたわけではありませんでしたが、わが家は昔から必ず家族全員で投票に行くことになっていました。
以前は今ほど事前投票が簡単ではありませんでしたので、投票日はなによりも投票に行くことが優先されていました。
これは娘たちにも厳しく課せられていました。

それへの反発か、娘たちは誰に投票したかは公開しませんでしたが、わが家の家族が投票した立候補者が当選することはあまり多くなかったように思います。
少なくとも私と節子の支持者は落選することが多かったような気がします。
その点で、わが家はいささか社会の主流からは外れていたのかもしれません。
しかし、節子も私も、それなりにしっかりとした意見があったという自負はあります。

政治に関しても、節子とはよく話し合いました。
結婚した当時からそうでした。
結婚した頃、節子は政治に対する知識があまりありませんでした。
それでいささか知ったかぶりの私はさまざまな政党の主張や政策課題の話を節子にレクチャーしたものです。
節子はとても興味を持って、ノートまでしながら私の話を聞きました。
ですから節子の政治的価値観の形成には私が大きく影響しています。
しかし節子との話し合いの中で、理論中心の私の政治的価値観もまた大きく影響を受けました。
ですから、私たちは政治に関する話題も日常的にかなりできていたように思います。
もちろん生活用語で、です。
節子に、「マルチチュード」などと言っても相手にされませんので。
そうした日常的な政治の会話ができないことが残念です。

この選挙結果を見たら、節子はなんと言うでしょうか。
ぜひ聞いてみたいものです。
私の、このやりきれない気分が、私の独りよがりかどうかもきっと評価してくれるでしょう。
それにしても、やりきれない気分です。
テレビを蹴飛ばしたくなりましたので、テレビを見るのをやめました。

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■会社と幸せ

先月、「幸せ創造企業への道」をテーマにしたフォーラムのパネルディスカッションの司会をさせてもらいました。
最近よくテレビでも話題になっているメーカーズシャツ鎌倉の貞末さん、スワンベーカリーの海津さん、それに長野の中央タクシーの宇都宮さんと、3人の経営者に来てもらいました。
3人とも、まさに「幸せ創造経営」を実践している方たちです。
会社経営の目的は、関わる人に幸せになってもらうことだと考えているのです。
この人たちと話をしたら、そしてその会社の実態を知ったら、会社に対するイメージは間違いなく変わるでしょう。
しかし残念ながら、こうした企業は決して多くはありません。
そればかりか、むしろ企業の経営は金儲けが目的だと思っている人がなんと多いことか。
金儲けのために、自らの大事な人生を預けてしまう人の気持ちが、私には理解できませんが、なぜか経営の目的は金儲けではないという私の考えがおかしいといわれることが多いのです。

貞末さんに感動したことがあります。
貞末さんは、福島原発事故の後、福島の縫製工場への発注を増やし、しかも工賃を引き上げたのだそうです。
放射線汚染で福島で作られて商品への輸入拒否が海外で起こっていた時期です。
昨夜もテレビで貞末さんは「下請け」などと言う言葉は使えない、仲間だと話していました。
こうした貞末さんたちの実践は、もっと広く知られてほしいものです。
企業への不信感も少しは改善されるでしょう。

こうした企業の善行はたくさんあります。
経団連や同友会は、そうした活動をもっとしっかりと社会に知らせていくべきだと思いますが、そうした財界の中心にいる財界人たちの会社は、いずれも利益追求だけにしか関心はありませんから、そうした社会意識の強い会社はむしろ目の敵なのでしょう。
そうした企業の社員たちは、あまり幸せそうな顔をしていないような気もします。
自社の社員を幸せにできなくて、社会の問題に口を出すなといいたいです。

社員がみんな幸せな会社もあります。
長野の中央タクシーもすばらしい会社です。
長野に行ったら、ぜひ中央タクシーに乗ってみてください。
感動的なエピソードもたくさんあります。
スワンカフェは有名なので、説明するまでもないでしょう。
しかし驚いたことに、先日、大企業の経営幹部の皆さんの集まりで質問したら、ほとんどの人が名前さえ知りませんでした。
私は、企業関係者の人たちに新しい企業の動きについて話すこともありますが、あまりに情報基盤が違うので、これまで私の話は伝わっていなかったのかもしれないと最近ようやく気づきました。
どうも私は大きく社会から脱落してしまっているようです。
とてもうれしいことなのですが。

そういえば、最近ショックを受けたことがあります。
これも先日、あるビジネススクールでこれからの企業のあり方について話をさせてもらったのですが、後日、その受講者から、佐藤さんの話はほかの講義とは真反対のメッセージだったと言われたことです。
新しい思いを持った人たちが講師なので、私と同じベクトルだと確信していたため、ショックを受けました。

どうして相変わらずお金がこんなに大きな顔をしているのでしょうか。
住みにくい時代になりました。
明日からは、またもっと厭世観が強まると思いますが、壊れているのは政治だけではなく、企業も福祉も何もかものような気がします。

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■節子への挽歌1928:花かご会のカレンダー

節子
花かご会の山田さんが、来年のカレンダーを持ってきてくれました。
我孫子駅南口の花壇の写真を使ったカレンダーを毎年つくっているのです。
先週、湯島に行く時に、花壇で作業をしているのを見かけたのですが、時間がなくて声をかけられませんでした。
今年はもう1度くらい作業日があるかと思っていたら、それが今年最後の作業日だったのだそうです。
ついに差し入れが出来ませんでした。
気にはなっていたのですが。
山田さんが、節子の好きな花キャベツを植えたと話してくれました。

カレンダーは毎年変化しています。
今年は花の写真がさらに大きくなりました。
節子がいたら、喜んでいろんな人に送りたくなるかもしれません。

それにしても、突然に節子の友達がやってくると、時々どう対応していいか迷います。
節子がいたら、ちゃんとお土産も渡すのでしょうが、それも忘れてしまいました。
どうも女性を相手にするのは不得手です。
困ったものです。

それにしても、今年ももう終わりです。
あっという間の1年でしたが、今年はあまり「いいこと」がありませんでした。
ということは、たぶん生活が正常化してきているのでしょう。
ものは考えようで、最近は病気になるのも健康の証拠と思えるようになってきています。

花かご会のカレンダーを節子にお供えしました。
最近、節子の位牌の前は、いろいろとにぎやかです。
節子は果報者です。

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■節子への挽歌1927:生きたという事実

節子
今日はとてもあったかく、良い天気です。
午前中は自宅で一人で過ごしています。
昔はこうした日は、節子は必ず庭仕事でした。

いつも隣にいた人がいないと、なんだかそこに穴が開いたようで、気分が落ち着きません。
人間は、そうした穴に何かを当て込んで、穴を感じなくさせるものですが、時間がアッつと逆にその穴が感じられるようになるのです。
これは普通の体験とは違うかもしれません。

「物理的にいなくなること=死」をどう受け止めていくかによって、死者とのかかわりが生まれ、死者に対するリアリティや死者との経験、儀式や作法といったことが生まれてくる、と何かの本に書かれていたのを思い出します。
物理的な不在と心理的な存在は、なぜか両立します。
物理的にいなくなっても、時にその存在を以前よりも強く感ずることもあるのです。
こういう、晴れた小春日和には、節子の存在を強く感じます。
それに今日は、娘も不在ですから、ますます強く感ずるのかもしれません。

死で、すべてが終わるわけではありません。
物質としての身体はなくなっても、その人の生が、なくなってしまうわけではありません。
前に引用したジャンケレヴィツチの「死は生きている存在のすべてを破壊するが、生きたという事実を無と化することはできない」という指摘は、とても納得できます。

今朝、何気なく書棚を見たら、桑子敏雄さんの「気相の哲学」が目に止まりました。
10年以上前に読み出して、見事に挫折している本です。
目に止まったのも何かの縁と、読み出してみました。
20分で、また挫折です。
朱子学を唱えた朱熹たちの思想を踏まえての新しい哲学の書なのですが、やはり難解です。
でも気になるので、少し時間をかけて再挑戦することにしました。
その最初のところにこんな文章があったからです。
実は、ここで挫折して、読むのをやめたのですが。

朱熹は死後の存在を否定していますが、死が魂・魄という気の分離であるとするなら、死は何らかのエネルギー状態にあった気の転移であると理解することができるでしょう。とすれば、魂・魄の分離がエネルギーそのものの喪失であるとは考えにくいでしょう。親しかった死者を悼んで涙を流すなど、死んだ者が時折わたしたちの心の作用を引き起こすとすれば、そこには何らかの死者のエネルギー状態がその時点で存在すると考えられるのではないでしょうか。
ここまでの文章が難解で、まだ咀嚼できずにいます。
しかし、なんとなく「大きないのち」を読み解く、ひとつのヒントがありそうです。
少しがんばって読んでみようと思います。

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2012/12/15

■ナチスの時代に向かいそうで心配です

友人の田中弥生さんが「宣戦布告の書」を書きました。
書名は「ドラッカー2020年の日本人への「預言」」(集英社)です。
今回の選挙の前に、そのメッセージのことをきちんと書こうと思いながら、今日になってしまいました。
しかし、明日は投票日。
とりあえず、その本の一部を紹介させてもらいます。

政治を本質的に変えるとは、首相の首を挿げ替えることでも、政権交代でも、政界再編でもなく、有権者の当事者意識と責任感がどこまで育ち、政治にプレッシャーを与えることができるかということなのです。有権者の責任感と政策をみる眼が育まれなければ、政治に緊張感を与えることができず、政治の質は低下してゆくのです。

今回の選挙の結果は、おそらく日本の未来に大きな影響を与えるでしょう。
テレビで語っている人たちの影響を受けることなく、自らの心身で素直に考えて投票しなければいけません。
私の期待には沿わない方向に向かいそうな気配ですが、多くの人がそう願うのであれば、それもまた甘んじて受けなければいけません。
私が願う方向に向けて、私が頑張ってきたこともないので、その咎は受けなければいけません。
しかし、日本がナチスの時代に向かっているような気がしてなりません。
田中さんも、それを危惧しています。
仮に、そうだとしても、やはり一人でも多くの人に投票に行ってほしいものです。

私は明日、行けなくなるかもしれないので、今日、病院の空き時間に近くの市役所に事前投票に行ってきました。
多くの事前投票者がいたのに驚きました。
もしかしたら、みんな1日でも早く、政治を変えたいと思っているのかな、などと一瞬考えてしまいましたが、全国的には事前投票数は増えていないようです。

明日の結果を念じないわけには行きません。
ますます厭世観がつのりそうではありますが。

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■節子への挽歌1926:ユカの入院

節子
ユカが入院しました。
肺炎をこじらせてしまいました。
ユカは節子の悪いところを引き継いでしまい、呼吸器系が弱いのです。
その上、中途半端に頑張ってしまい、最後はダウンしてしまうパターンが多いのです。
困ったものですが、血筋は仕方がありません。

昨日は熊谷に行っていたのですが、夕方、ジュンから電話があり、入院することになったよと連絡があったので、急いで帰宅しました。
まあ私がいても何の役にも立ちませんが、こういう時には母親と父親の違いを思い知らされます。

幸いにジュンが近くに住んでいるので、私自身の生活にはあまり支障はないのですが、みんなに迷惑をかけることになります。
考えてみると、私がわが家で一人で過ごすのはもしかしたら初めてかもしれません。
前にもあったような気もしますが、思い出せません。
一人だと、何もやる気が起きません。
夕食はジュンが用意してくれ、一緒に食べましたが、お風呂は面倒なのでやめてしまいました。
一人だとじっくり本でも読めるはずですが、そんな気は起きません。
テレビも一人では観る気も起きないものです。
改めて娘たちの存在に感謝しています。

節子がいなくなってから、しばらくは病院とは縁がなかったのですが、最近どうも縁が戻ってきてしまいました。
入院病棟に行くとやはり、少し辛いものがあります。

今夜はまたひどく寒い夜になりそうです。
部屋にはエアコンがないので、この挽歌も震えながら書きました。

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2012/12/14

■節子への挽歌1925:家事見習い

節子
最近ようやく少しだけ食事づくりをするようになりました。
娘のユカがダウンしてしまったので、やむを得ずなのですが。
しかも、お母さんから何を教えてもらっていたのと、怒られながらです。
しかし、まあ魚も焼けるようになりましたし、おでんもつくりました。
もっとも昨日はブロッコリーを茹でるために木っ端微塵に切り刻んでしまいました。
その上、小さな茎ももったいないからと思って茹でたら、そこは硬くて食べられないといわれました。
つくった手前、無理して食べましたが、やはり筋が残りました。
困ったものです。

洗濯も始めました。
洗濯機なので簡単だろうと思いきや、いろいろややこしくて、何回も質問するため、ユカは自分でやったほうが楽だとさえ言っていましたが、ようやくほぼマスターしました。
しかし、干しても、干し方が悪いので乾かないと怒られます。
まったく娘たちはやさしくありません。私に似て、性格がよくありません。
困ったものです。

手のかかる長男のチビ太は、最近は少しだけおとなしくなりました。
しかしそれは、元気がなくなったというべきかもしれません。
まだ食欲はありますし、意識はしっかりしているのですが、ほとんど寝ていて、お腹がすいたり用を足したくなると、鳴いて呼びつけます。
それも真夜中が多いのです。そのため私は熟睡できません。
眠い時に呼びつけられると蹴飛ばしたくなりますが、我慢しています。
これまた困ったものです。

しかし娘が2人いて、一人は同居、一人も近くに住んでいるので、とても助かっています。
それにジュンの伴侶の峰行は、節子がいたら、まるで修のようだというくらい性格が良く、私に負けずに単細胞なので、楽をさせてもらっています。

それにしても、いわゆる家事というのは、面倒なものです。
それに「心」をきちんと入れないとうまくいきません。
自分でやってみて、それがほんとによくわかります。
それを40年以上、しっかりと続けてきてくれた節子には感謝です。
しかし、私としては、私が旅立つまでずっと節子にやってほしかったです。
食器を洗いながら、いつもそう思います。

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2012/12/13

■節子への挽歌1924:泣くより笑うほうがいいですか

節子
今日はTさんから元気をもらったので、もうひとつ書きます。
なにしろまただいぶタイトルの数字がずれてきてしまっていますので。

綱島梁川という思想家は、「悲哀はそれ自らが一半の救なり」と言ったそうです。
柳田邦男さんも、著書の中で、「悲しみの感情や涙は、実は心を耕し、他者への理解を深め、すがすがしく明日を生きるエネルギー源となるものなのだと、私は様々な出会いのなかで感じる」と書いています。

「悲哀は一半の救なり」などとは少し前までは考えてもいませんでした。
しかし、いまはそれがよくわかります。
涙した後のすがすがしさやあたたかさは、私も何回も経験しています。

涙は決して、不幸なものではありません。
それはただ自らの素直な思いや感情の表現でしかありません。
涙が出るのは悲しい時だけではありません。
うれしい時も、怒った時も、楽しい時も、涙は出ます。
喜怒哀楽の表現なのです。
男は人前で涙を見せてはならないと言われますが、号泣はむしろ好意的に受け止められます。
涙は、人が有する豊かな感情の表れなのです。
だとしたら、人はどんどん泣くのがいい。
涙をふんだんに流すのがいい、と私は最近思います。
泣くのも笑うのも、同じことなのです。

そうは言っても、泣くよりも笑うほうがいいと多くの人は思うでしょう。
私も、つい最近まではそうでした。
それに、笑うことは生命の免疫力を高めるとも言われます。
そうであれば、泣くより笑うことがいいでしょう。

でも、泣くことの効用も大きいように思います。
泣くこともまた、生命の免疫力を高めるのではないか、私は最近、そんな気がします。
むしろ、笑うよりも泣くほうが、心身を浄化し、豊かにしてくれるかもしれません。

涙の効用は、ことのほか大きいのです。
悲しかったら泣きましょう。
それも、堂々と泣きましょう。
涙をこらえることなどせず、大河のように涙しましょう。
泣いていると、心が安らぎ、心身があったかくなってきます。
その効用も、節子が教えてくれました。

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■節子への挽歌1923:挽歌のご褒美

節子
見覚えのないTさんという人からメールが届きました。
怪訝に思いながら開いてみました。

前略 佐藤さま。突然のメールをお許しください。
「節子へ」というブログを書いていらっしゃいますか。
間違っていたら申し訳ありません。
どうやらこの挽歌を読んでくださった方のようです。
それだけでうれしい気分になるのもおかしな話ですが、正直なところ、節子のことをまた一人、知ってくれた人がいると思うと、何やらうれしくなってしまうのです。
ところが、読んでさらにうれしくなりました。
Tさんは、私が毎週かかさずに見ている「小さな村の物語イタリア」という番組のプロデューサーだったのです。
もう忘れていたのですが、昨年のはじめに、この挽歌でこの番組に触れたことがあったのです。
Tさんのメールは、その記事をある小冊子への寄稿文に引用してもいいかという内容でした。
もちろんお断りする理由はなく、むしろとてもうれしい話です。

Tさんはその寄稿する文章の原稿も添付してくださいました。
まだその小冊子は発行されていませんので、ここに引用することはできませんが、そこにとてもうれしい文章が書いてあったのです。

私の挽歌を読んでくださったTさんは、制作スタッフのみなさんに私の挽歌の記事を送ってくれ、こう付け加えてくださったというのです。
「このひとのために番組を作ろう!」と。
そんなこととは、夢にも知らず、私は毎回、その番組を見ていたわけです、

Tさんは、こうつづけて書いてくれています。

その編集方針はいまだに変わらない。
見えない相手だが、心は見える。
そこにそっと明かりをともすことができれば、それが私たちの仕事だ。

その明かりは間違いなく私に灯っています。
いまではテーマソングが頭から離れなくなっていますし。

挽歌を書き続けていると、思ってもいなかったこんな素敵なご褒美をもらえるものなのです。
最近どうも挽歌が書けなくなってきていたのですが、ちょっとまた元気が出てきました。

Tさん
ありがとうございました。
来週からもっと思いを入れて、番組を楽しませてもらいます。
また涙が出そうですが。

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2012/12/12

■節子への挽歌1922:いのちの優しさ

節子
節子を見送って以来、たぶん、私は前よりもずっと生きることに素直になったと思います。
言い方を換えると、優しくなったような気がしています。
なんとなくそう思っていたのですが、作家の高史明さんの、次のような文章に出会いました。
最近、引用が多いのですが、また少し長い引用をさせてもらいます。

「優しさ」とは、「いのちの優しさ」である。「いのち」とは、それぞれの「いのち」であると同時に、地球上に「いのち」が発生して以来何億年もの間、「いのち」が「いのち」を生んで流れて来た「大きないのち」の現われでもある。そうした「大きないのち」に支えられた「いのち」の力・働きが「優しさ」なのであり、生き物であるかぎり、当然、人間にもそれはもともと与えられている」。
以前も頭ではこういうことはわりと納得できていましたが、節子を見送った後、こうしたことが心身に素直に入ってくるようになったのです。
言い換えると、大きないのちにつながっている自分を意識できるようになってきたのです。
そうなると、自然と優しくなっていきます。

高さんは、いのちはもともと優しいのだといいます。
それがとてもよくわかります。
赤ちゃんの笑顔が優しいように、だれもがみな、素直に生きていれば、優しいのです。
その優しいいのちを、人はなぜか素直に生きようとしない。
そのことが、節子を見送った後、とてもよくわかります。

節子がまだ此岸にいた頃、私たちはお互いにとても素直でした。
そして優しかった。
節子の前では、私はほぼ完全に素直になれ、節子もまた私の前ではほぼ完全に素直になっていたはずです。
その居心地のよさが、私の生き方に大きな影響を与えました。
居心地がいいから優しくなれる、そして優しくなれるから居心地がいい。
実はそれは同じことなのです。
そして、素直に生きていていいんだと確信をもてるようになったのです。
その「居心地が最高によかった世界」はなくなりましたが、その確信は、いまも私の生き方の基調になっています。
いや、その確信のもとに生きることが、節子とのつながりを強め続けてくれるのです。

私のいののちを支えていてくれる「大きないのち」が、いまもなお節子のいのちとつながっていると思うだけで、とても安堵できます。
そして、だからこそ優しくなれるのです。
愛する人を見送った人はみな、間違いなく優しいのです。
しかしなぜ社会は、そうはならないのか。
不思議であり、悲しくもあります。

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2012/12/11

■節子への挽歌1921:悲しみから歌が生まれる

節子
本居宣長は、歌は悲しみから生まれたと書いているそうです。
こんな内容のようです。

どうにも「かなしみ」にたえがたいとき、人は思わず、声を上げて「ああ、かなしい、かなしい」と言うものだ。
とどめようと思ってもとどめがたく溢れでてきてしまう。
そのほころび出た言葉は、自然と長く延びていき、あるかたちをそなえたものになっていく。つまり、それが歌である。

なんとなく納得できます。
それに考えてみると、たしかに歌は「悲しさ」を基調としているものが圧倒的に多いです。
しかし、最近は歌以外にも悲しさを表現する手段はたくさんあります。
たとえば、このブログのように、書くこともその一つです。

なぜ私が、この挽歌を書き続けるかと言えば、もって行き場のない悲しさの溜まり場をつくっているのかもしれません。
たしかに、挽歌を書き続けていることで、悲しさが今もなお、「いきいき」としているような気がします。
悲しさを忘れるために歌うのではないように、悲しさを忘れるために書いているのではありません。
書くことによって、悲しさが生きつづけるように、挽歌を書いているのです。

最近、そのことがとてもよくわかってきました。

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■敦賀原発活断層問題とロック・イン現象

技術や経済の世界では、ロック・イン現象という事がよく見られます。
一度、ある状況が生まれると、その状況をベースにしてさまざまな展開が広がっていくので、最初の状況に問題が発見されても、なかなかそこから抜け出せなくというのがロック・イン現象です。
有名な話ではタイプライターの文字配列の事例があります。
初期の機械式タイプライターでは、高速に打鍵すると印字ハンマーが絡まってしまうために、連続打鍵されやすい文字をあえて離れた位置に配置したと言われていますが、その後、機械式でなくなった後も、配列は変わらなかったという話です。
こんな例であれば、そう大きな問題にはなりませんが、原発の問題になるとそうはいきません。

今の日本の社会は、原発依存度が大きくなっています。
そのため、脱原発したら雇用がなくなるとかエネルギーが不足するとか、電力コストが高くなるといわれます。
こうした発想は、まさにロック・インされた発想です。
重要なことがロック・インされると、そのシステムは進化できなくなります。
まさに今の日本は、そうした状況にあるように思います。

昨日開かれた原子力規制委員会の専門家調査団による評価会で、敦賀原発の敷地内の断層が「活断層」との見解が出されました。
それに対して、原発にロック・インされている日本原子力発電の経営陣やその関係者である技術者は大きな戸惑いとともに、反発を示しています。
敦賀市長も異論を唱えています。
ロック・インされた人には風景は違って見えるのは当然ですが、同じデータを見ても評価は全く異なってしまうわけです。
しかし、原子力規制委員会の田中委員長は、見事と言っていいほど、評価を変えています。
私は、そこに大きな不安を感じます。
田中さんは、これまではどう考えていたのでしょうか。
彼がにわかに、ロック・インの呪縛から自由になったとは思えませんが、もしかしたらロック・インの仕方が違っていたのかもしれません。

先日読んだ松本三和夫さんの「知の失敗と社会」(岩波書店)に、とても納得できる文章がありました。ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

科学技術に関する政策をつくるという仕事には、本来の仕事で忙殺されていない科学者、技術者も含む学識経験者(ないし有識者)がかかわることが多い。
科学技術に関する政策の立案、実行には実のところ高度の専門的判断が要求されるにもかかわらず、そのような判断を体現する目利きが活用されることなく、政策の立案、実行の過程がもっぱら関係主体による利害調整の過程となる傾きにある。

とても示唆に富んでいる指摘です。
私は、田中委員長をまったく信頼できずにいます。

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2012/12/10

■節子への挽歌1920:運命は外から働くばかりでなく内からも働く

西田幾多郎の話をもう一度。
昨日の挽歌で引用した原典の「『国文学史講話』の序」の中には、こんな文章も出てきます。
ちょっと長い引用ですが、とても含蓄のあるものです。

いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。
しかし何事も運命と諦めるより外はない。
運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議のカが支配しているようである。後悔の念の起るのは自己のカを信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大のカに帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷を卸した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。
まさに私には自分のことを言われているような気がします。
もっとも、後悔から懺悔に代わっても、心の重荷は卸した気分にはなりませんが。
「運命は外から働くばかりでなく内からも働く」という文章で、少しだけ気が楽になるのですが、すぐその後で、「後悔の念の起るのは自己のカを信じ過ぎるからである」と言われてしまうと、一転、奈落の底に落とされたような気がしてしまいます。

最初の文章は、私にも実感できますし、それにすがりたい気持ちもあります。
節子が私より先に逝ったのは理由があるのだと思うと、少し重荷が軽くなります。
その理由も、いろいろと思いつくのです。
しかし、「後悔の念の起るのは自己のカを信じ過ぎるからである」と言われてしまうと、まさにその通りなので、なんだか自分が責められているようで救いにはなりません。
西田幾多郎にとっては、後悔と懺悔とは大きく違うのでしょうが、いまの私には違いがわかりません。
むしろ自己の力を過信したが故に、節子を失ってしまったとさえ考えてしまいます。
それでまた「いじいじ」してしまうわけです。
困ったものです。

それはそれとして、問題は「運命は外から働くばかりでなく内からも働く」ということです。
自らの判断もまた、大きな定めのなかで行われているというような意味でしょうが、過信もまた定めだったのです。
それに「過信」しなければたぶん乗り切れなかったでしょう。
それは、私の定めであり、節子の定めでもあったのです。
そしてさらにいえば、いまこうして「いじいじ」としていることもまた、定めなのでしょう。

こう考えていくと大きな気づきに到達します。
すべての定めは、自らの心の中の煩悩から生まれているのではないかということです。
そして、色即是空にたどりつくわけです。
西田幾多郎は、「何事も運命と諦めるより外はない」と書いています。
ここで「諦める」とは、いうまでもなく「明らかにする」ことでしょうが、だからといって煩悩が消えるわけではありません。
ただいえることは、いじいじすることにも意味があるということです。
定めには素直に従わなければいけません。

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■支持政党なしなどといって逃げるのはやめましょう

今回の衆議院選挙は、私たちの未来を決める上でとても重要な意味を持っていると思っていますが、どうも多くの人はそう思っていないようです。
今もって、支持政党なしとか、誰に投票していいかわからないなどという人が半数もいるとは信じ難い話です。
みんなまじめに考えていないからです。

無党派層を自称する人を私は信頼しません。
自らを無宗教だなどといって、恥らうことのない人を信頼しないのと同じです。
政治と宗教は、人間にとって一番大事なことだと、私は思っているからです。
真面目に生きていたら、政治や宗教と無縁であるはずはありません。
たしかに、自分にとってすべてに納得できる政党などないでしょう。
しかしきちんとした自らの軸があれば、選ぶべき政党は必ず見えてきます。
支持政党がないというのは、自分の怠慢さ以外の何ものでもありません。
恥ずべきことだと思います。

原発よりも自分の会社の業績や不満の憂さ晴らしに関心がある人が多いような気がしてなりません。
私には信じられない話ですが、お金にしか依存できない人間に見事に育てられてしまっているようです。
選挙期間中くらいは、同僚と酒など飲みに行かず、また残業などはせずに、早く帰宅して政見放送や政治番組を観るべきです。
できれば家族や友人と政治問題を語り合うべきです。
もちろん政治番組は批判的に観なければいけませんが、そこに登場する政治家の発言を聴いたり見たりしていると、本性はかなりつかめます。
友人知人と話せば、みずからの視野の狭さに気づくはずです。

日本の現状はかなりの衆愚政治に堕していると私は感じていますが、このままだと日本のナチ化が進みかねません。
ニーメラーの教訓を忘れてはいけません。

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2012/12/09

■民主党という幻想

まだ選挙の軸は自民党と民主党の二大政党を前提に議論されています。
第三極という言葉が、それを示しています。
しかし、民主党は政党でしょうか。
もう瓦解した瓦礫の集まりではないかと思います。
政見放送を聞いているとそれがよくわかります。
原発に関してもTPPに関しても、全く反対の意見を同じ民主党員が演説しています。
まあ自民党も似たようなことはありますが、ここまで酷くはありません。

日曜日の時事放談で浜矩子さんが、これまでの枠組みで考えていてはいけないと何回も発言していました。
全く同感です。
私が知る限り、パラダイムシフトして発想している人は浜さんと藻谷さんくらいです。
その他のコメンテーターや学者たちは、みんな従来の発想の延長です。
12党の代表では、新党日本の田中康夫代表だけが、枠組みの呪縛を抜けています。
しかし、そのためにテレビでの討論会では浮いていて、司会者からは無視されがちです。

それにしても瓦礫になった政党の残渣が政権与党という現実には身震いがします。
それに、野田首相や安倍さんの演説はヒトラーの演説を思いださせます。
予想以上に、事態は深刻なのかもしれません。
たとえば、福島原発事故が終息したと公言することは、私にはきわめて悪質な犯罪的行為だと思いますが、そういう人が「政治家としてはいいほうだ」と多くの政治評論家(たとえば私が好きな田崎さん)が評価している現実は、私には実におぞましい状況です。

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■節子への挽歌1919:悲しみから抜け出るのは「不人情」

竹内整一さんの新聞記事に、西田幾多郎の話が紹介されていました。
それで思い出して、西田幾多郎の「思索と体験」の「『国文学史講話』の序」を読み直しました。
すっかり忘れていましたが、何回も読み直しました。
愛娘を亡くした西田幾多郎の思いが、こう語られています。

人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我、一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。
この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。
あの西田幾多郎もそうだったのだ、いや、西田幾多郎だからこそそうだったのだろうなと思ったら、わけもないのに少しうれしくなりました。
娘と妻の違いはありますが、「忘れたくない」と思うのが当然だと確信できたからです。
悲しみから抜け出るのは「不人情」だと思っていた私の気持ちがなんだか肯定されたような気がしたのです。
まわりの「薄情な友人知人」に読ませたいものです。

西田幾多郎といえば、『善の研究』で有名な哲学者であり、私にはなかなか消化し難い気がして、この数十年、きちんと読んだこともないのですが、なんだか今なら読めそうな気がしてきました。
書棚のどこかにあるだろう『善の研究』を探して、改めて読んでみようと思います。
ちなみに、彼がこの小論を書いたのは明治40年だそうです。
いまから100年近く前のことです。
人の情は変わらない、ということも確認できて、とても気が休まりました。

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■「かえるの王様」選挙

前回の選挙は、よく言われるように「政権交代」が争点でした。
多くの人は「政策の内容」ではなく「政権の交替」に関心があったのです。
政治のことはよくわからないが(考える努力はしたくないが)、政権を変えたら良くなるかもしれないと、多くの人は考えたわけです。
今度の選挙も、同じような雰囲気で多くの人が捉えているような気がしてきました。
少なくとも、テレビの選挙関係の報道からはそういう雰囲気を感じます。
しかし、それでいいのかどうか。+
イソップの「王様を求める蛙」の話を思い出します。
それはこんな話です。

昔々大きな沼がありました。
そこにはたくさんの蛙が自由に暮らしていました。
ところが、蛙たちは自分たちには支配者がいないのに気づき、神さまに「自分たちの王様がほしい」と頼みました。
神さまは、彼等が馬鹿なのを見てとって、一本の木片を沼の中に落してやりました。
蛙たちは初めはその音に肝をつぶして、沼の底へもぐり込みました。
しかし、木が動くものではないのに気づくと、その木の上にあがってそこに坐りこむほどそれを馬鹿にするようになりました。
そしてこんなものを王さまに戴くことは恥かしいと思い出し、再び神さまに、もっとしっかりした王様がほしいと嘆願しました。
蛙たちの身勝手さに腹を立てた神さまは、水蛇を彼等の王様にしてやりました。
そして、蛙たちはみんな水蛇に食べられてしまいました。
沼は平和になりました。

日本にも平和は来るのでしょうか。

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2012/12/08

■節子への挽歌1918:「花びらは散っても 花は散らない」

節子
タイトルの「花びらは散っても 花は散らない」は、今日、知った言葉です。
東京新聞に載っていた竹内整一さんのエッセイで知りました。
浄土真宗の僧侶で、仏教思想家の金子大栄さんの言葉だそうです。
この言葉だけではちょっとわかりにくいもですが、それに続く「形は滅びても人は死なぬ」という言葉を読むと、その意味がよくわかります。
竹内さんは、『この言葉は、「あらゆるものは実体なく移りゆくが、そのことを悟れば、それらはそのままに実在である」という、仏教の「色即是空 空即是色」という考え方にもつながる』と書いています。
いまの私には、とても納得できる言葉です。

さらに、竹内さんはこう続けています。

「散らない花」とは、生者の側が死者に働きかけるだけではなく、死者の側が生者に働きかけてくる何らかの働きによって花開くものとして考えられている。
「死者の側が生者に働きかけてくる何らかの働き」。
なにやらオカルトのように感じる人もいるかもしれませんが、愛する人を見送った人は、多かれ少なかれ、そうしたことを体験しているのではないかと思います。
節子を忘れない人がいる限り、節子は生きているという実感に関しては、これまでも何回か書いてきました。
そしてだからこそ、私はこの挽歌を書き続けているわけですが、生者からではなく死者からもまた生者に働きかけてくるというのは、これまであまり意識していませんでしたが、たしかにその通りです。
節子はなにかと私たち家族に働きかけてくるのです。
とりわけ、私の行動にはかなり関わってきます。
そしてそのたびに、私は節子を意識し、節子の存在を感ずるのです。
竹内さんは、同じエッセイで、「死は生きている存在のすべてを破壊するが、生きたという事実を無と化することはできない」という、ジャンケレヴィツチの言葉も紹介していますが、生きていたという事実だけではなく、いまなお生きていて、生者の人生に影響を与えてくるのです。
まさに「花びらは散っても 花は散らない」。いまなお節子は私とともに生きている。
この感覚は、思念的でもあり現実的でもあるのです。

金子さんの文章をもう少し引用します。

 花びらは散っても 花は散らない
 形は滅びても人は死なぬ
 永遠は現在の深みにありて未来にかがやき
 常住は生死の彼岸にありて生死を照らす光となる 
 その永遠の光を感ずるものはただ念仏である

毎朝の短い念仏は、節子が彼岸にいると同時に、此岸でも生きている証を確認する時間でもあります。
花びらが散らない花はありません。
しかし、花びらが散ってもなお、花であると気づけば、花は散ることはないのです。

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■節子への挽歌1917:もしかしたらまた胃腸炎?

節子
昨日また腹痛の予兆があり、大事をとってゆっくりと過ごしています。
先の胃腸炎は、ウィルス性かと思っていましたが、もしかしたら神経性かもしれません。
いろいろと心当たることもあるのです。
昨日、軽井沢から戻ってきて、パソコンを開いて、ある情報に触れた途端に軽い腹痛がやってきたのです。
そういえば、26日もそうでした。

この半年、私にはまったく相応しくない問題にコミットしてしまったのが、いささか人生を狂わせてしまっているのです。
もし節子がいたら、たぶんこの問題をシェアしてくれたでしょうから、胃腸炎は起こらなかったかもしれません。
いや、あるいは節子が胃腸炎を起こしていたかもしれません。
そう考えてハッと気づきました。
もしかしたら、私のわがままな生活のために、節子が病気になったというのはまんざら根拠がないわけではないな、と。
私の悩みや心配を、節子はもしかしたらすべて引き受けていたのかもしれません。
だから私はこうまで楽観主義でいられたのかもしれません。

もちろん私も心配で眠れないという体験はありました。
そういう時、節子に八つ当たりしたり、節子に救いを求めたり、そんなことをしていたような記憶もあります。
節子は、どんな問題であろうと、私の問題はシェアしてくれていました。
もちろん私も節子の問題はすべてシェアしていました。
困った時には相手が解決してくれるだろうと私たちはお互いに確信していたのです。
だから2人とも同じだと思っていましたが、その受け取り方は違っていたかもしれません。
節子は、よく「修は口だけだから」と嘆いていたのを思い出します。
私にとっては、それはいささか不満な評価ではありますが。

きっと節子のほうが、大変さを多く引き受けていたのです。
だから病気になってしまった。
悩みをシェアするといっても、必ずしも半々のシェアではないのです。
なぜそれに気づかなかったのか。
そういえば、節子はこんな言葉も時々言っていました。
「だれもが修と同じではないのだから」と。
私は、自らにもそれなりに厳しいですが、他者への要求や期待も大きかったのです。
そのくせ他者からの要求や期待には必ずしもきちんと対応できていませんでした。
今でこそかなり寛容になっていますが、むかしはかなり要求の強いタイプだったのです。
それを正してくれたのも節子ですが、それと引き換えに、節子は病気になったのかもしれません。

胃腸炎の予兆で休んでいたのですが、逆にますます胃腸が痛み出すような気がします。
ビオへルミンを飲みました。

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■「非武装による平和」と「脱原発による平和」を捨てたくはありません

フェイスブックには書いたのですが、改めてここでも書くことにします。
サバティカル休暇でロンドンで1年間過ごしていた知り合いの大学教授Oさんから聞いた話です。

Oさんは滞英中、日本の報道には触れず、現地の報道だけを見ていたそうですが、そこには日本の話題はほとんど出てこなかったそうです。
しかし、滞在中に一度だけ大きく話題になったことがあったそうです。
それは今週、日本の原発がすべて止まった時です。
ドイツはすぐに脱原発を決めましたが、しかし原発による電力をその後も使っています。
しかし、日本は原発によるエネルギーをすべてやめたわけですから、日本よりも原発に対する関心の強いヨーロッパでは、話題になるのは当然かもしれません。
日本では、すべての原発が止まっても大丈夫だということが当時あまり強く認識されず、相変わらず原発依存3割の認識でみんな考えていましたが(今もなぜかそうなっています)、その意味はとても大きいことをイギリスあるいはヨーロッパの知識人は認識していたわけです。
日本の「知識人」とはまったく違います。

Oさんによれば、当時、日本への評価や期待がとても高まっていたそうです。
憲法9条の平和宣言に続いての、第2の平和宣言というほどの、大きなインパクトがあったのかもしれません。
日本の国際的なステータスや発言力を高める絶好の機会だったのに、なぜすぐに大飯原発を再稼動してしまったのかとOさんは嘆いていました。
日本は絶好の機会を逃したわけです。
そういう情報を大きく流してくれたマスコミは、わたしの記憶ではなかったと思います。
日本のマスコミは、原発推進の政財界の中枢的な一画を担っていますから、当然だったかもしれません。

日本はいま、世界にとっては大きな未来への指針である、「非武装による平和」と「脱原発による平和」の2つの道を捨てようとしています。
自民党は国防軍(軍隊はすべて国防軍です)をつくることで、次の世代の徴兵を考えています。そのために、教育基本法もすでに変えてしまいました。
これも戦争好きなマスコミはあまり問題にすることはありませんでした。
民主党は原発輸出を進め、一時的な原発稼働率ゼロのお題目のもとに原発推進を目指しています。
そして国民の多くは、なぜかそうした政党を支持し、自らの子どもたちを戦争や被曝に向かわせようとしています。
私には、いまや日本は神に滅ぼされるソドムやゴモラになってしまったような気がします。
昨夜の地震は、その予兆ではないかと思ったほどです。

マスコミやテレビのコメンテーターたちの虚言に惑わされてはいけません。
今度の選挙くらい、論点が明確で、投票者を決めやすい選挙はありません。
にもかかわらず、マスコミは「選択が難しい」とはやし立てています。
お金まみれの彼らには、確かに選択は難しいでしょう。
しかし、生活の視点に立てば、選択はいとも簡単です。

経済よりも防衛よりも、生命をまもることです。
現世代の利便性ではなく、子どもたちの平安を願うことです。
子どもを思う親であれば、投票すべき相手は明確にわかるはずです。
それを混乱させるような、テレビの政治番組に騙されてはいけません。
子どもを戦争に行かせたくないなら、子どもを被曝させたくないなら、自民党や民主党、さらには維新の会に投票する気にはならないはずです。

これを書いている最中に、電話の無作為アンケートがかかってきました。
今度の選挙ではしっかりと原発反対に一票を投じます。
私が真剣に反原発に取り組んでいると思っている政党は、未来の党、新党日本、新党大地、社民党、それに山本太郎さんだけです。
共産党は理念としては反原発ですが、実際には原発推進派に加担していると思います。大義の前に小自にこだわっているからです。

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2012/12/06

■節子への挽歌1916:軽井沢はもう雪です

節子
今日は軽井沢で企業の人たちと合宿です。
そろそろこの活動もやめようかと思っていますが、そう思いながらもまだ続けています。
今朝は雪が3センチほど積もったそうです。
このホテルには毎年、何回か来ていますが、考えてみると節子と一緒に軽井沢に来たことはありませんでしたね。
節子とはいろいろなところに行きましたが、なんで来なかったのだろうかと思うところも少なくありません。
軽井沢も、その一つです。

まだ娘たちが子どもの頃、奥軽井沢や中軽井沢で夏を過ごした記憶がありますが、あんまり記憶が定かではありません。
私は自分の人生に関する記憶が実に希薄なのです。
真剣に生きていなかったわけではないのですが、過ぎたことにはほとんど興味がないのです。
節子との思い出も、例外ではありません。
しかもわずかの思い出も、あまりリアリティがないのです。
節子との思い出は、私にはみんな夢のようです。

そんなことを考えていたら、なんだか節子と一緒に軽井沢に来たことがあるような気がしてきました。
駅前の蕎麦屋さんで蕎麦を食べたような気もします。
人の記憶など、実にあいまいですね。

節子は私とは反対で、思い出をしっかりと残すタイプでした。
私たちは、その点でも役割分担していたのです。
だから以前のことを思い出す必要があれば、節子に訊けばよかったのです。
私にとって節子は記憶バンクの一つでもあったのです。
節子だったら、私たちが一緒に軽井沢に来たかどうかを覚えているでしょう。

私の過去の記憶が曖昧なのは、昔からだったような気もしますが、もしかしたら、節子がいなくなってからのことかもしれません。
そんな気もします。
脳がそうしてくれているのかもしれません。
節子との思い出があまり明確すぎるとその思い出から抜け出せなくなるからかもしれません。

いずれにしろ、人の記憶は不思議です。
明日は今日よりももっと寒くなるそうです。

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■節子への挽歌1915:人は比較する生き物

節子
経済学者のアダム・スミスは、人間に関しても深い洞察を重ねている人ですが、そのスミスが、人間の悲惨は、みずからの状態と他者の状態との問の差異を過大に評価することから生じる、と言っています。
人は「比較する生き物」なのです。
 
愛する人を失うと、「これ以上の不幸はない」と思う人は少なくないでしょう。
これ以上ないとは比較できないほどのことですが、スミスに言わせれば、極限の過大評価ということになるでしょう。
これ以上の不幸はないのですから、なんでもありの思いが襲ってきかねません。
いわゆる「絶望」と言うことです。
ですから、後追いや自暴自棄に向かう危険性をはらんでいます。
しかし、その絶望は、同時に生ずる、「愛する人をこれ以上失いたくない」という思いで、自らを守ってくれる力にもなるのですが、これはまた改めて書くことにします。
今日は「比較」の話です。
 
不幸なのは自分だけではない、同じ状況にある人はほかにもいる、と実感できると少し痛みはやわらぎます。
スミスの言葉を借りれば、「差異の過大評価」が少し修正されるわけです。
こうした場を与えてくれるのが、グリーフケアの場かもしれません。
だが、それで何かが変わるわけではありません。
つまり「過大評価」は是正されても、愛する人の不在は依然として続きます。
残念ながら、私にはグリーフケアの効用はほとんどありません。
私も、「比較する生き物」である以上、悲惨さは緩和されてもいいはずなのですが、なぜでしょうか。
 
本来、人の体験は、極めて個人的なものであり、比較はできないはずです。
私の場合は、比較すること自体に拒否反応が起こるのです。
これは我ながら不思議なのですが、どうしても自分を特別だと思いたいわけです。
スミスの指摘は、とても納得できるのですが、私自身はまだ被害妄想の世界から抜け出られずにいるのです。
頭での思考と心身の思いはなかなか一致しません。
いつここから抜け出られるか、自分でもわかりません。

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2012/12/05

■節子への挽歌1914:花のある生活

節子
庭の色違いのハイビスカスが3色とも咲いています。
白と赤と黄色です。
節子がいなくなってから、毎年、花の数が減っていますが、節子が3色集めたハイビスカスは元気に咲きました。
最近は私も娘たちも、なかなか時間が取れずに、庭の手入れは出来ずにいましたから、こうして元気に花を咲かせてくれるととてもうれしいです。
毎年、枯らしていたランタナは地植えにしたおかげで、まだ元気で咲いています。

私は子どもの頃は昆虫学者になりたいという思いもあったくらい、生物が好きでした。
花もいいですが、それ以上にそこに集まる昆虫や微生物が好きでした。
「花のある生活」と「生き物がいる生活」は微妙に違います。
しかし、花があれば生物は集まってきます。

花のある生活を支えてくれていたのは節子です。
湯島のオフィスには植木や生花をできるだけ置いてもらっていました。
節子はベランダの植栽の手入れをしてくれていましたし、玄関の花も生花でした。
病気になってからは、玄関の花は造花になり、ベランダの植栽はほとんどが枯れてしまいました。
私の手入れの問題もありますが、湯島にいく機会が減ったことも一因です。
なんとか生きた植物や動物と思って、いろいろと工夫はしているのですが、節子がいなくなってからは湯島では花もメダカもなかなか元気に育ってくれません。

わが家の庭の植物も、池の中の魚たちも、どうも元気ではありません。
やはりなにかが違うのでしょう。
そういえば、節子がいた頃は私の自宅の仕事場にも寝室にも、植物がありましたが、いまはありません。
だんだん殺風景になってきています。

節子は「花になって戻ってくる」と言っていました。
これでは戻ってこられません。
もっとまわりに花をたくさん育てなければいけません。
最近、どうも元気が出てこないのは、そのせいかもしれません。
体調が回復したら、部屋の花を買いに行こうと思います。

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2012/12/04

■原発をほんとになくしたいと考えている政党

選挙が始まりました。
争点が3つか5つとか言われていますが、私にとっての争点はたった一つです。
原発を許容するかどうかです。
人にはそれぞれ考えがありますから、原発をどう考えるかは人によって違うでしょうが、福島の現実を身近に体験すれば、原発を強要するなどと考える人はいないだろうと思っていました。
しかし日本国民のほとんどはまだどうも原発維持派のようです。
そうおもうとやりきれない気持ちです。
たぶんこれを読んでいるほとんどの人が、私から見れば、原発支持者でしょう。

なぜ私がそう思うかといえば、相変わらず民主党や自民党や維新の会を支持する人が多いからです。
彼らは間違いなく原発支持派です。
稼働率議論をしていることが、それを証明しています。
あるいは原発を輸出していることにも、それは明らかです。
原発を許容しないのであれば、輸出すべきではありませんし、許容できないものと20年も付き合うなどと言うおかしな結論にはなりません。
稼働率議論をしている人たちは、矛盾だらけの議論を展開していますが、ほとんどの国民とほぼすべてのテレビ人は原発支持でしょうから、その矛盾には目をつぶっています。
維新の会代表の石原さんは、日本の核武装まで示唆しながら原発必要論を公言していますが、その党のスローガンにさえ原発フェードダウンなどと書かれています。
茶番劇と言うか、どうしようもないほどの無責任さです。
橋本さんは、言うまでもなく私から見れば、原発支持派です。

共産党は原発反対の立場を明確にしています。
今日も共産党の人と話し合いましたが、その思いは嘘ではないでしょうが、実際には原発を無くそうなどとは考えていないでしょう。
ほぼ300選挙区に共産党は立候補者を立てています。
そのほとんどは当選しません。
しかし当選しないとしても選挙区の脱原発派の票を分散させる効果は発揮します。
市民グループが、共産党に働きかけて、脱原発派の人を結集するために候補者の調整を検討してほしいと呼びかけても、検討しようとさえしていないのが現実です。
共産党は、党利党略のために反原発を唱えているだけで、むしろ反原発の動きを阻害しています。
反原発に限りませんが、共産党の主張は正しくとも、実践面では逆の働きをすることが、少なくありません。
だから共産党も実際には反原発とはいえません。

実際に反原発の政党はどこでしょうか。
私には4つしかない気がします。
一人で立候補した山本太郎もいれれば、5つかもしれません。

ちなみに、選挙の争点が3つとか5つとか言いはやしているマスコミは、反原発を封じ込もうとしているとしか思えません。
テレビを見ているとやりきれない気分になるので、最近は見ないようにしていますが、どうしてみんな原発の呪縛から抜けられないのでしょうか。

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■節子への挽歌1913:野菜スープをつくりました

節子
家事は結構大変で、高度な仕事だということを実感しています。
ユカがダウンしてしまったので、私が家事をやる必要が発生しているのです。
しかしそれがなかなか難しい。
ユカは、お母さんから学んでいなかったのかと嘆いています。

娘たちがまだ小さな頃、夏休みに節子たちが滋賀に帰省し、私だけが1週間ほど残ることがありました。
節子は工夫して留守中の食事の用意をしておいてくれましたが、1週間の終わりごろには食べるものがなくなり、みんなが戻ってくれる頃には、私は餓死寸前でした。
自分で料理するくらいなら空腹を我慢したほうがいいというのが、当時の私のスタイルでした。
だから家事はすべて節子に任せていました。
だからといって、亭主関白ではありません。
ごみを出せといえば、出しに行きますし、お風呂を洗えといわれれば洗うのは厭いません。
でも自発的にやるのが不得手なのです。
先日、テレビで指示待ちの亭主の話を取り上げていましたが、娘はそれを見て、お父さんみたいだと大笑いしていましたが、それを否定できずにいました。

それでまあ、最近少しずつ反省して、家事に取り組みだそうと思っているのです。
洗濯機の使い方はやっと覚えました。
ただし、洗濯したものをせっかく干しても、干し方がわるいと娘に注意されます。
そのうえ、乾いた洗濯を取り入れても、たたみ方が悪いというのです。
親は褒めて育てるものだと言うと、娘は子どもの頃褒められなかったと反撃します。
困ったものです。
干し方やたたみ方など、どうでもいいと思うのですが、ユカは特に几帳面なので妥協してもらえません。
私の記憶では、節子はそんなに几帳面でなかったはずですが、なんで娘は几帳面になってしまったのでしょうか。
反面教師かもしれません。

調理に関しては、節子は私に教えようとしていました。
エプロンまで買ってくれました。
私も2度ほど、その気になりましたが、続けられませんでした。
不幸にして、娘が2人いると、何もしなくてもやってもらえるという甘えがぬぐえないのです。
これまた困ったものです。

私ほど、家事の面で楽をしている人はそうはいないでしょう。
それに感謝するとともに、その生き方を直す必要を感じ出しています。
それで今日は、ユカのために野菜スープをつくったのです。
おいしく作れました。
これから少しは調理もやろうかと、今は思っています。
明日になると気変わりするかもしれませんが。

しかし私が40年、毎日、快適に暮らせたのは節子のおかげだったことを改めて感謝しています。
家事を担当する主婦の存在は大きいです。
それをおろそかにし、主婦への感謝の気持ちを忘れた社会は壊れていくような気がします。
今度、節子に会ったらお礼を言わないといけません。

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■選挙がなるとかかってくる電話に辟易します

選挙活動が始まりました。
選挙が始まると決まってかかってくるのが立候補者の後援会からの電話です。
私はいずれの人の後援会にも入っていませんが、必ずかかってくるのが2つの政党からです。
一番不愉快なのは、前にも書きましたが、投票日にかかってくる電話です。
せっかくその人に投票する予定だったのに、電話が当日かかってきたためにほかの人に投票したこともあります。
私は電話が嫌いなのです。
その同じ政党の後援会の人から、早速電話がありました。
それで、逆効果ではありませんかと話しました。
それから話が広がり、ついに20分ほど話してしまいました。
その電話の主は65歳の女性で、1年半前からその当の活動に共感して後援会活動などに参加しているようです。
投票はともかく講演会に来てほしいと誘われました。
選挙時でなければ考えてもいいのですが、そういう集まりに行って、後悔しなかったことはまずありません。
虚しい言葉の乱立だけです。
ほとんどが現場での体験がないのでしょう。

選挙時に電話をかけることは、選挙活動の常套手段だといわれています。
私も以前、選挙活動に参加しましたが、駅立ち、ポスティング、電話がけが活動の基本だとされていました。
私は、そうした活動には批判的ですので、新しい活動方針を提案しましたが、結局は従来とおりの活動が主流で行われました。
私自身は、そうした選挙活動にはどうしてもなじめず、途中で意欲を失ってしまいました。
まさに「選挙屋」といわれるプロの人ががんばっていましたが、私には逆効果のように思えて仕方がありません。
もう従来型の選挙活動には関わるまいと決めました。

電話をもらって考えを整理できる人もいるかもしれません。
電話によって選挙への関心を高めることができるかもしれません。
しかし、私には生活の中にこちらの都合も考えずに電話を一方的にかけてくる人の神経が理解できません。
セールスの電話も少なくありませんが、あれとどう違うのか。
選挙に立候補した人には一度考えてほしいと思っています。
知らない人に電話をかけるのは、そう安直にすべきことではありません。
私の考えは特殊かもしれませんが。

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■節子への挽歌1912:病院での節子との時間

節子
今日もまたほぼ病院にいました。
先週もそうでしたが、わが家では火曜日は病院の日になってしまった感があります。
今日は、私は患者ではなく付き添いです。
病院は今月開院した近くの名戸ヶ谷あびこ病院です。
とても雰囲気のいい明るい病院です。
新しいので清潔感もあり、スタッフの動きもきびきびと、まだ緊張感がありました。
受付時間を少し過ぎて病院に着いたのですが、親切に対応してくれました。

そういえば、あの頃は節子と2人でよく病院で過ごしました。
ともかく待ち時間が長く、長い時には2時間以上も待ったことがあります。
けだるさと哀愁があふれたガン病棟の待合室での時間は、あまり体験したくないことですが、しかし、今となってはなんとも言いようのない、不思議な幸せな時間だったかもしれないと思えるようになってきました。
隣に節子がいたからという意味ではありません。
時間だけではなく、思いを共にする幸せです。
心がひとつになっていたことはいうまでもありません。
私たちだけではありません。
そこには、不安と悲しみと同時に、何となく平安な静寂もまたあったような気がします。
患者同士の、あたたかな思いやりや心配りもありました。
それに明らかに、時間の進み方が違っていました。

少し前までは思い出すことさえおぞましい感じだったのが、今はあったかささえ感ずるのはなぜでしょうか。
人の思い出は時間とともに変化するようです。
久しぶりに病院で半日を過ごしましたが、なにやら6年前のことをいろいろと思い出してしまいました。
私にとって、病院はまた安堵できる場になってきたようです。

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2012/12/03

■節子への挽歌1911:節子、働いていないね

節子
最近わが家では節子の評判がよくありません。
なにしろ最近のわが家は良いことがありません。
それで、娘のジュンが線香をあげながら、節子、働いてないね、と言ってます。
節子、聞こえていますか?

わが家では家族同士は名前で呼び合うようにするのが私の方針でしたが、節子はこれに反対でした。
娘たちに親を名前で呼ばせるのはおかしいというのです。
私は、「お父さん」などという味気のない普通名詞で呼ばれるのは好みではありませんでした。
しかし節子は、娘が外で私のことを「おさむ(さん)」と呼ぶのはおかしいというのです。
どこがおかしいのか、私にはよくわかりませんが、夫婦で折り合いがつかなかったことの一つです。
ちなみに、娘たちは、両親の希望を半々ずつ受け入れているので、時に名前で呼ぶこともあるのです。

最近のわが家の不幸を書くのはいささか不謹慎なのでやめますが、ともかく凶事が続いています。
残された家族を守る責務を、節子は果たしていないのではないかというわけです。
困った時の神頼みではありませんが、節子はいまやわが家の守護神ですから、わが家で起こる不幸はすべて節子の責任になるわけです。
いやはや困ったものです。
節子、まじめに働いて、家族を守るようにしないといけませんよ。
もうこれ以上、凶事がつづくと、家族全滅ですぞ。

まあしかし、私の胃腸炎も順調に回復していますので、最悪の状況は脱しそうです。
ようやく節子が働き出したのでしょうか。
これからどんどん良いことが起こることを期待していますよ。
節子
頼みますよ。
これ以上の重荷はもう背負い込みたくないのですが。

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2012/12/02

■節子への挽歌1910:胃腸炎のなかで考えたこと

節子
2日間の完全療養で、胃腸炎はほぼ回復しました。
まだ食欲は戻らず、心身の違和感は残っていますが、かなり正常化してきました。
しかし1週間ほど、なにもしない怠惰な生活をしていたせいか、怠惰さは直りません。
まあこれも自然の流れに任せましょう。
今日は湯島に出かける予定です。
フォワードカフェがあるからです。
今の私は、まさに参加適格者でしょう。
前に進もうかどうしようかと迷っている状況ですし。

もっともこの1週間、何もしていなかったわけではありません。
挽歌は書きませんでしたが、書く以上にいろいろなことを考えていました。
節子も同じように、話せず書けずの時には、いろいろと考えていたことでしょう。
人は、話せない時、書けない時のほうが、よく考えているのです。
それにも思いは至りました。
人はやはり、その立場にならないとなかなかわからないものです。
しかし、同じ立場になど、実はなれるはずもありません。

節子は私たちに話したいこと、書き残したいことがたくさんあったでしょう。
でも話も書くこともできなかった。
その思いを私はきちんと受け止めていたでしょうか。
その答えは間違いなくノーです。
私は、それを受け止めずにいたのです。
いくら悔いても悔い足りないほどの悔いがこみ上げます。

しかし、節子はそれを非難していたでしょうか。
悲しんでいたでしょうか。
いささかの迷いはありますが、この答えもノーです。
節子は私を全面的に信頼していました。
私も同じです。
ありのままの存在で、お互いに十分に満足していました。
人を信ずることの気持ちのよさを、私たちは感じていたと思います。

胃腸炎で心身の違和感を持ちながら、改めてそんなことを考えていました。
人を信ずることができる幸せを感じています。
節子はそれを教えてくれました。
人は信じなければいけません。
最近ちょっと挫けそうになっていましたが。

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