■節子への挽歌1922:いのちの優しさ
節子
節子を見送って以来、たぶん、私は前よりもずっと生きることに素直になったと思います。
言い方を換えると、優しくなったような気がしています。
なんとなくそう思っていたのですが、作家の高史明さんの、次のような文章に出会いました。
最近、引用が多いのですが、また少し長い引用をさせてもらいます。
「優しさ」とは、「いのちの優しさ」である。「いのち」とは、それぞれの「いのち」であると同時に、地球上に「いのち」が発生して以来何億年もの間、「いのち」が「いのち」を生んで流れて来た「大きないのち」の現われでもある。そうした「大きないのち」に支えられた「いのち」の力・働きが「優しさ」なのであり、生き物であるかぎり、当然、人間にもそれはもともと与えられている」。以前も頭ではこういうことはわりと納得できていましたが、節子を見送った後、こうしたことが心身に素直に入ってくるようになったのです。
言い換えると、大きないのちにつながっている自分を意識できるようになってきたのです。
そうなると、自然と優しくなっていきます。
高さんは、いのちはもともと優しいのだといいます。
それがとてもよくわかります。
赤ちゃんの笑顔が優しいように、だれもがみな、素直に生きていれば、優しいのです。
その優しいいのちを、人はなぜか素直に生きようとしない。
そのことが、節子を見送った後、とてもよくわかります。
節子がまだ此岸にいた頃、私たちはお互いにとても素直でした。
そして優しかった。
節子の前では、私はほぼ完全に素直になれ、節子もまた私の前ではほぼ完全に素直になっていたはずです。
その居心地のよさが、私の生き方に大きな影響を与えました。
居心地がいいから優しくなれる、そして優しくなれるから居心地がいい。
実はそれは同じことなのです。
そして、素直に生きていていいんだと確信をもてるようになったのです。
その「居心地が最高によかった世界」はなくなりましたが、その確信は、いまも私の生き方の基調になっています。
いや、その確信のもとに生きることが、節子とのつながりを強め続けてくれるのです。
私のいののちを支えていてくれる「大きないのち」が、いまもなお節子のいのちとつながっていると思うだけで、とても安堵できます。
そして、だからこそ優しくなれるのです。
愛する人を見送った人はみな、間違いなく優しいのです。
しかしなぜ社会は、そうはならないのか。
不思議であり、悲しくもあります。
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