■節子への挽歌1931:「気にしてくれる個人」の存在
節子
今年の初めに放映されたETV特集『花を奉る 石牟礼道子の世界』を観ました。
録画していたのですが、なかなか観る気になれませんでした。
石牟礼道子さんの「苦界浄土」を最初に読んだ時の衝撃は忘れられません。
節子と一緒に水俣に行く機会はつくれませんでしたが、いつか行って見たいところのひとつでした。
2つの言葉が気になりました。
「悩んだほうがいい」と「気にしてくれる人がいると幸せ」という言葉です。
とても共感できるからです。
悩みのない人生がいいと言う人が多いかもしれません。
しかし私は最近、むしろ悩みこそが豊かさの証ではないかと思うようになってきました。
最近、私は悩みが増え続けています。
節子がいた頃は、悩みはすべて節子に預けてしまっていたのかもしれません。
あるいは節子と一緒だったので、悩みが悩みとして意識されていなかったのかもしれません。
悩みは、シェアすると悩みではなくなることがあるからです。
しかし、節子がいなくなってからしばらくして、さまざまな悩みが襲ってきました。
よく節子の位牌に向かって、節子は悩みがなくていいね、と話しかけていたものです。
しかし最近は、そうした悩みもまた、人生を豊かにしてくれるもののような気がしてきました。
ですから、石牟礼さんの「悩んだほうがいい」という言葉が、腑に落ちたのです。
水俣病に苦しむ人たちはまだ大勢います。
石牟礼さんは、施設で生活している水俣病を背負った人たちに会いに行きます。
彼らもまた、石牟礼さんを覚えていてくれましたが、その後、石牟礼さんがしみじみと、「社会からの目だけではなく、気にしてくれる個人がいると幸せ」だというのです。
大切なのは、気にしてくれる個人がいること。
石牟礼さんは、気にしている個人として、生きつづけているわけです。
事情は違いますが、そのことがいかに大切かを私は最近痛感します。
生きている人においてもそうでしょうが、死者もまた同じです。
あるいは、死者と共にある者にとっても、とても大切なのです。
私もまた、「気にしてくれる個人」である生き方を大切にしています。
石牟礼さんは、多くの人が悩みから逃げ、誰かを気にする余裕もなくなってきている現代の風潮を憂いているのです。
そのことの大切さを、私もようやくわかってきたところなので、石牟礼さんの言葉はとても心を動かされました。
花を奉るように、石牟礼さんはゆっくりと生きています。
その生き方が、輝いて感じました。
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