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2012/12/24

■節子への挽歌1940:景色の変化

節子
家の窓から近くの斜面林の大きな木々が見えます。
風にゆっくりとそよぐ木々の間を、鳥が時々飛び回っています。
まだ4時を少しまわったばかりなのに、陽を受けて、とても心があたたかくなるような、きれいな色を見せています。
しかも、その色合いが刻々と変化していきます。
音もなく静かで、その色合いの移り変わりにしばし見とれていました。
こんなにゆっくりと、その一群の木々を見ていたのは久しぶりです。
いま4時半近くですが、急に夕映えの暖色系は後退し、全体が黒く沈みだしました、
その変化は急速です。
見ているだけで、心身が冷えていきそうです。

わが家は高台なので、リビングからも周辺の景色が少し見えます。
いつもはあまり気にしていないのですが、今日は少し時間をもてあまして、リビングで見るでもなく外の景色を見ていたのです。
隣の大きな屋敷の主人が亡くなったために、来年は、その大きな家の庭に何軒かの家が建つかもしれません。
ですから、この風景も、そのうちに見えなくなるかもしれません。
そう思うと、何かしみじみとその夕映えの風景を心に刻みたくなったのですが、夕陽がかげったせいか、なにやら冷え冷えとした風景に変わってしまいました。

普段はあまり意識していませんが、わが家から見える景色もいろいろとあります。
しかし、景色とは何でしょうか。
そこにあるものでしょうか、それとも見る人が創りだすものでしょうか。
おそらく見る人によって創りだされるものでしょう。
そして見る人によって、景色はまったく違ったように見えてくるのです。
いまもリビングでパソコンにこの文章を打ち込みながら、横を見ると30分ほど前まで見ていた風景と同じ風景が見えていますが、その景色はまったく違います。
心が冷えるような。とてもさびしく悲しい景色が、そこにあります。

たとえそこにあったとしても、意識しなければないのと同じです。
そして意識によって、その意味は変わります。
伴侶はどうでしょうか。
伴侶は「空気のような存在」と言う人がいます。
私も、そうした感覚を節子に持っていました。
その意味合いは、人によって違うでしょうが、私の場合は「かけがえのない不可欠の存在」という意味も含意していました。
もしそうなら、節子がいなくなったら、もう生きつづけられないのではないかと思ったこともあります。
しかし、節子を見送ってから5年以上経ちますが、私はまだ生きています。
つまり、節子はまだ存在しているのです。
見えないだけかもしれません。
景色がそうであるように、節子もまた、いまなお私の隣にいるのかもしれません。
見る人が景色を創りだすように、節子もまた、私が創りださなければいけないのです。

外はもうどんよりと、そして寒々としてきました。
こうして夜の帳が全てを消し去ってしまいますが、朝になればまた、景色は生き生きと輝きだします。
節子もそうだといいのですが。
いや、節子もそうなのかもしれません。

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