■節子への挽歌1915:人は比較する生き物
節子
経済学者のアダム・スミスは、人間に関しても深い洞察を重ねている人ですが、そのスミスが、人間の悲惨は、みずからの状態と他者の状態との問の差異を過大に評価することから生じる、と言っています。
人は「比較する生き物」なのです。
愛する人を失うと、「これ以上の不幸はない」と思う人は少なくないでしょう。
これ以上ないとは比較できないほどのことですが、スミスに言わせれば、極限の過大評価ということになるでしょう。
これ以上の不幸はないのですから、なんでもありの思いが襲ってきかねません。
いわゆる「絶望」と言うことです。
ですから、後追いや自暴自棄に向かう危険性をはらんでいます。
しかし、その絶望は、同時に生ずる、「愛する人をこれ以上失いたくない」という思いで、自らを守ってくれる力にもなるのですが、これはまた改めて書くことにします。
今日は「比較」の話です。
不幸なのは自分だけではない、同じ状況にある人はほかにもいる、と実感できると少し痛みはやわらぎます。
スミスの言葉を借りれば、「差異の過大評価」が少し修正されるわけです。
こうした場を与えてくれるのが、グリーフケアの場かもしれません。
だが、それで何かが変わるわけではありません。
つまり「過大評価」は是正されても、愛する人の不在は依然として続きます。
残念ながら、私にはグリーフケアの効用はほとんどありません。
私も、「比較する生き物」である以上、悲惨さは緩和されてもいいはずなのですが、なぜでしょうか。
本来、人の体験は、極めて個人的なものであり、比較はできないはずです。
私の場合は、比較すること自体に拒否反応が起こるのです。
これは我ながら不思議なのですが、どうしても自分を特別だと思いたいわけです。
スミスの指摘は、とても納得できるのですが、私自身はまだ被害妄想の世界から抜け出られずにいるのです。
頭での思考と心身の思いはなかなか一致しません。
いつここから抜け出られるか、自分でもわかりません。
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